山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■岸田訪米のドンチャン騒ぎと小池百合子バッシングは、裏でつながっている。文藝春秋は、米国ClAの御用雑誌だろう。

■岸田訪米のドンチャン騒ぎと小池百合子バッシングは、裏でつながっている。文藝春秋は、米国ClAの御用雑誌だろう。

文藝春秋は、米国ClAの走狗として、《田中角栄スキャンダル 》から《リクルート・スキャンダル 》、《小沢一郎スキャンダル》、《鈴木宗男佐藤優スキャンダル》・・・など、多くの謀略的な政治スキャンダルを主導して、有能な国民的政治家たちを潰してきた米国CIAの御用雑誌である。今、話題沸騰中の《小島俊郎 」とかいう元環境省勤務で、その後小池百合子側近として、《 都民フアーストの会 》の顧問や事務総長なそを務めていたらしい、その《小島俊郎》が、いつの間にか 、小池百合子都知事とは、袂とをわかったらしく、あるいは意見対立などから《切り捨てられた 》らしく、総理の可能性も囁かれていた小池百合子都知事の《 カイロ大学卒業疑惑 》ネタに食いついて 、厳しく批判・中傷するレポートを、「 月刊文藝春秋 」に発表して、右も左も大騒ぎになっているようだが、私には、この《小池百合子バッシング 》ともいうべき騒動に若干の異論がある。《 小池百合子潰し 》の中心勢力は日本のマスコミや大衆(国民)のように見えるが、真の黒幕は別にいるように、私には思われる。《岸田訪米》と《小池百合子潰し 》は、無縁ではない。岸田長期政権を狙うバイデン政権にとって、国民的人気のある小池百合子は目の上のタンコブなのだ。まzy小池百合子を潰せ、といyわけだ 。米国支配層にペコペコ頭を下げ続け続け、植民地支配の手先となり、ひたすら宗主国・米国に媚びへつらう岸田訪米のバカ騒ぎを見せられていると、日本国民も、《 何かおかしい 》《岸田は日本国民を裏切っている 》と気づいきはじめているのではないか。《 米国のイヌ=岸田文雄》を倒して、小池政権を・・・という日本国民の願望が、一部とはいえ、盛り上がっていることは、当然のことだろう。しかし、 その一方、日本国内では、川勝平太バッシングや小池百合子バッシングが、突然、沸き起こり、《親中派 》や《 学歴詐称 》などというレッテル貼りの元に、その地位から引きづりおろそうという《政治策謀 》が続けられている。誰が、川勝平太静岡県知事や小池百合子都知事を、引きづりおろそうとしているのか。私は、そこに興味があるが、あまり共感はえられないように思う。仕方がない。それにしても、小池百合子学歴詐称問題の火付け役は、カイロ時代に、小池百合子と同居していたという《北原百代》とかいう謎の日本人女性。わずか二、三年の同居生活時代の体験を元に、執拗に小池百合子にまとわり続ける情熱と怨念の持続力には、頭が下がるが、それほどの情熱と怨念の持続力があれば、小池百合子並に、あるいは小池百合子以上に、もっと生産的なことが出来ただろうにと思うが・・・。だから、私は、この問題は、小池百合子の問題というよりは、現在は80歳前後になっているだろう北原百代という謎の日本人女性の問題であるように思。若い頃、エジプト辺りを放浪し、通訳ガイドで、一生を棒に振った女。気がついてみれば・・・。彼女の不毛な人生に、私は、不謹慎かもしれないが、大変、興味がある。同じことが、今、話題の《小島敏郎 》にもいえる。私と、ほぼ同年代の、つまり団塊の世代と言われた世代であり、全共闘世代だ。東大法学部時代(東大全共闘世代)は、何をしていたのか。公務員試験で三番だったきとが自慢らしいが、この男の人生とは、なんだったのだろうか。単なるガリ勉秀才の貧しい人生だったのではないか。お前の人生は、小池百合子都知事のスキャンダルを追い回し、それを文藝春秋に売り込み、刑事告訴までチラつかせて、《 正義のヒーロー 》気取りのエセ有名人。しかも、自分で文章が書けないらしく、ゴーストライターにおんぶに抱っこ。恥の上塗りをしなければならないほど、薄っぺらで、貧しい人生だったのか。文章ぐらい自分で書けよ。何がゴーストライターだよ。。
何故、君たちは、《小池百合子スキャンダル 》にそれほどこだわるのか。小池百合子が《 総理大臣 》になるかもしれない・・・ということが、そんなに許せないのか。もっと、自分の人生にこだわれよ。自分の人生と向き合えよ。

 廣松渉とその時代。《疎外論 》から《 物象化論 》へ、あるいは《物的世界観》から《事的世界像》へのゲシュタルト・チェンジ。

廣松渉とその時代。《疎外論 》から《 物象化論 》へ、あるいは《物的世界観》から《事的世界像》へのゲシュタルト・チェンジ。

私は最初から廣松渉を読んでいたわけではない。小林秀雄江藤淳柄谷行人・・・を熟読していた私からみれば、廣松渉のような堅苦しい生硬な文章を書くマルクス主義者が苦手だった。別に、理解できないから苦手だったのではない。私は、廣松渉の哲学論文が難解だと思ったことはない。私が廣松渉を読もうとしなかったのには別の理由があった。私が、廣松渉を読むようになったのは、廣松渉の《カント論》が素晴らしいという話を、大学院時代に聞いたからである。それなら、読んでみようかなと思ったのである。私が、最初に読んだ廣松渉の論文は、カント論ではなく科学哲学論『科学の危機と認識論』( 紀伊国屋新書 1973年 )だった。私が、その科学哲学論にヒントを得て書いたのが、『小林秀雄理論物理学』という私の実質的処女作だった 。私は、そこで、ニュートン的近代科学とアインシュタイン相対性理論ハイゼンベルク的量子物理学の思考法の変化 、その現代物理学の三段階革命論に注目し、それが小林秀雄の批評の原理の誕生と平行関係にあるのではないかと考えたのである。批評家・小林秀雄の誕生とは、《危機 》に直面することであった 。《危機(クリティック) 》の自覚が批評(クリティック)なのである。批評と危機の語源は、同じ《クリティック》である。しかし、廣松渉には、批評の意味がよくわかっていないように見える。廣松渉の思考は、危機=批評を乗り越えて、新しい世界観というイデオロギーを再構築することにあるような気がする。廣松渉の《 物象化論 》、あるいは《事的世界観 》とは、廣松渉が再構築しようとした新しいイデオロギーに過ぎない。私は、廣松渉の《 物象化論 》や《 事的世界観 》を面白いとは思うが、しかし、その世界観に洗脳され、それに安心して、思考停止することが 、廣松渉の哲学であるように 、私にはみえる。私は、それには異論がある。そこには、残念ながら危機=批評がないからである。人が《考える》のは、危機=批評の場面だけである。廣松渉は、《 危機 》=《 批評 》からの回復を目指して、新しい理論を構築しようとしている。その新しい理論が、《 物象化論》や《事的世界観 》である。廣松渉の処女作は、『エンゲルス論 』であるが、この『エンゲルス論 』で、廣松渉は、《 唯物史観 》の確立において、主導的役割を果たしたのは 、マルクスではなくエンゲルスだったと主張している。これはこれで重大な発見であり、重大な研究であるが、ここにも廣松渉の《反批評的姿勢》は顕著である。私は、この『エンゲルス論 』を参考に、『 マルクスエンゲルス』を書いたが、その思想内容は、廣松渉とはまったく逆であった。私は、マルクスは批評家であり、批評家であることによって、より深い哲学的思考を、つまり批評的思考を展開し続けることが出来たのだ、と論証した。私は、どちらかといえば、小林秀雄柄谷行人のような《 文芸評論家 》的な《 批評 》に近い立場に立っていたのである。しかし言うまでもなく、廣松渉は、その死に至るまで思考する人であった。廣松渉に思考停止はなかった。ここが不思議なところである。廣松渉は新しい形而上学の確立を宣言したが、実は廣松渉こそ《 批評家 》だったのではないか。廣松渉も、《掘っ建て小屋 》に住み、絶えず思考し続けた《批評家 》だったのではないか。

廣松渉とその時代。《疎外論 》から《 物象化論 》へ、あるいは《物的世界観》から《事的世界像》へのゲシュタルト・チェンジ。

⬛️廣松渉とその時代。《疎外論 》から《 物象化論 》へ、あるいは《物的世界観》から《事的世界像》へのゲシュタルト・チェンジ。

私は最初から廣松渉を読んでいたわけではない。小林秀雄江藤淳柄谷行人・・・を熟読していた私からみれば、廣松渉のような堅苦しい生硬な文章を書くマルクス主義者が苦手だった。別に、理解できないから苦手だったのではない。私が、廣松渉を読むようになったのは、廣松渉の《カント論》が素晴らしいという話を、大学院時代に聞いたからである。それなら、読んでみようかなと思ったのである。私が、最初に読んだ廣松渉の論文は、カント論ではなく科学哲学論『科学の危機と認識論』( 紀伊国屋新書 1973年 )だった。私が、その科学哲学論にヒントを得て書いたのが、『小林秀雄理論物理学』という私の実質的処女作だった 。私は、そこで、ニュートン的近代科学とアインシュタイン相対性理論ハイゼンベルク的量子物理学の思考法の変化 、その三段階革命論に注目し、それが小林秀雄の批評の原理の誕生と平行関係にあるのではないかと考えたのである。批評家・小林秀雄の誕生とは、《危機 》に直面することであった 。《危機(クリティック) 》の自覚が批評(クリティック)なのである。批評と危機の語源は、同じ《クリティック》である。しかし、廣松渉には、批評の意味がよくわかっていないように見える。廣松渉の思考は、危機=批評を乗り越えて、新しい世界観というイデオロギーを再構築することにあるような気がする。廣松渉の《 物象化論 》、あるいは《事的世界観 》とは
廣松渉が再構築しようとした新しいイデオロギーに過ぎない。私は、廣松渉の《 物象化論 》や《 事的世界観 》を面白いとは思うが、しかし、そこで、安心して、思考停止する。そこには、残念ながら危機=批評がないからである。人が《考える》のは、危機=批評の場面だけである。

⬛️薩摩半島の山奥の限界集落にある《 古民家哲学カフェ》で、江藤淳を読む。



江藤淳山川方夫は、似た者同士的ではあったが、何処か微妙に違っていた。江藤淳山川方夫の差異は、《挫折》から立ち直る生活力と生命力にあった。江藤淳山川方夫もともに深い深刻な《挫折》をあじわっていたが、その《挫折》に対する対処の仕方に微妙な違いがあった。山川方夫には《挫折》に酔うところというか、甘えるようなところがあったが、江藤淳には、それがなかった。しかし、それは、必ずしも江藤淳が生活力があり、生命力が旺盛だったからではない。江藤淳も、高校時代から大学時代へかけて、《 肺病》という病を抱え 、たびたび休学や留年を余儀なくされていた。しかも家族にも病者を抱え、一家は破産寸前だった。江藤淳は、慶応大学の一 、二年生の時、自殺未遂事件を起こしている。江藤淳こそ《 挫折者 》だったのである。しかし、それでも江藤淳はへこたれなかった。つまり江藤淳こそ《 挫折 》状態にあり、それを嘆き哀しむこともできたが、江藤淳は、逆に挫折のどん底にいるが故に、必死でそこから這い上がろうともがいていた。そういう江藤淳にとっては、山川方夫の《 挫折 》に甘えるようなシニカルな態度が、容認できなかった。

《 私は彼の胸倉をつかんで、ネクタイを締めあげかねまじき目線で怒鳴った。「三田文学」の編集室のあった日本鉱業会館の、三階から四階に通じる踊り場でのことである。山川はそのとき顔色をかえてびっくりしたように私の顔をみつめ、しばらく黙っていた。だが次の瞬間に、

「 わかった。二人切りで話そう」

といったとき。彼の声からはそれまでのあるシニカルな響きは消えていた。

「君の家にいってもいいか? 」

山川はいった。》(『山川方夫と私』)



繰り返すが、江藤淳山川方夫とは似ていたが、決定的に違うところもあった。山川方夫は、江藤淳ほど強くなかった。江藤淳ほど断定的な口調で自己主張するだけの《強さ 》がなく、他人に遠慮するような、難局に直面すると、そこから逃げ出すような《 ひ弱な》ところがあった。 山川方夫を尊敬し、信頼するがゆえに、江藤淳には、その《シニカル 》な態度が我慢ならなかった。



《 私はそういう屈折したかたちで自己表現の欲求を充たそうとするのは邪道だといった。やはり彼は書くべきであり、ためらわずに自分を試みるべきである。私に書けといいながら、自分はおりているというのずるいと私はいった。山川はそのとき『 日々の死』書いているところだったが、その執筆の姿勢に私はある弱さを直感していたのである。彼が帰ったのは午前二時すぎだった。 》(同上)



この夜、江藤宅で、江藤淳山川方夫は、お互いに言いたいことを言ったと思われる。江藤淳はここで、山川方夫の《弱さ 》に言及している。私は、この《弱さ 》という平凡・凡庸な言葉は、江藤淳の批評的本質を理解する上での極めて重要な言葉ではないのか、と思う。《弱さ 》に居直り、《弱さ 》を売り物にする文学者や思想家が多い。江藤淳は、それを批判する。



《 だがいったい、私はなにを山川のなかに見ていたのだろうか? 私は山川に心のなかで頑張れ、頑張れ、といいつづけて来た。彼も私に同じように呼びかけてくれていた。ただ山川のいいかたと私のいいかたは、おそらくちがっていたのだ。私は山川にいいたかった。病気がなんだ。癲癇が病気なら、大腸カタルも同じ病気じゃないか。頑張って生きてくれ。それは私自身が誰かにいってもらいたいことに似ていた。崩壊と屈辱と無視を耐え忍ばなければならぬ者が、いつも誰かからいってほしいと願っていることに似ていた。しかし誰も私にいってくれる者はあらわれず、私は憤激をかかえ、曲る背中を無理にのばして生きている。生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ。だから君も頑張って生きてくれ。こう私は山川にいいつづけて来た。それなのにその山川が突然死んだ。なんという人生だ、これは。 》(同上)



ここで、江藤淳が言っていることは 、実に単純なことにすぎない。江藤淳の言葉や文章が理解できない人はいないだろう。しかし、江藤淳が単純素朴な言葉や文章で言っていることの《真意 》や《 思想》を理解することは、容易ではないだろう。ここで江藤淳が言っているは、江藤淳の批評の本質であり、江藤淳の思想の原理でもある。この江藤淳の単純素朴な言葉や文章の奥に隠された《 思想 》を理解できないが故に 、安直な《 江藤淳批判》や《 江藤淳罵倒 》が、まるで自明の真理のごとく蔓延することになるのである。

ここから、私は、少し大袈裟かもしれないが、江藤淳における《 強さと弱さの形而上学 》とでも言うべき理論を読みとる。あるいは《 治者の形而上学》とか、《父と子の形而上学 》とか呼んでもいい。要するに 、江藤淳は、一貫して 、弱さや弱者を批判し、強さや強者を擁護してきたように見える。言い換えれば、江藤淳は、一貫して 体制や権力を擁護してきたように見える。おそらく、《 江藤淳批判》や《 江藤淳罵倒 》は、そこから生まれてきたと思われる。だが、江藤淳の《 強者》擁護論は、江藤淳批判者たちが想像しているような 、そんな単純なももではない。まず、江藤淳こそ《 挫折者 》であり、《 弱者》だったという事実を直視すべきだろう。江藤淳の《弱者批判 》は、《 自己批判 》なのである。



⬛️薩摩半島の山奥の限界集落にある《 古民家哲学カフェ》で、江藤淳を読む⑵。



私が、江藤淳における《強さと弱さの形而上学》、あるいは《 治者の形而上学 》と呼ぶところのものが 、具体的にもっとも鮮明に体現されているのが、江藤淳太宰治論ではないか、と私は思う。江藤は、太宰治の《 弱さ》を批判するわけではない。《 弱さの演技》、つまり《 弱さの自己欺瞞》 を批判する。太宰治に面とむかって 、《 私はあなたが嫌いだ》 とか言い放ったのは三島由紀夫だったが 、三島由紀夫太宰治批判も、江藤淳太宰治批判にちかい三島由紀夫は続けて 、《 太宰治の悩みはラジオ体操か乾布摩擦でもすれば すぐに解消されるはずだ》とも言ったといわれているが 、 私は 、この太宰治批判は、江藤淳太宰治論にも通じるものをもっていると思う。江藤淳三島由紀夫も、太宰治の《 弱さの演技》、《 弱さの自己欺瞞》を批判している。しかし、太宰治批判は難しい。少なくとも 、文学業界に身を置くものでありながら、太宰治批判を行うといいうことは、かなり危険なことである。文学業界には、太宰治をまともに批判する人は少ない。江藤淳は 、まとまった太宰治論を書いているわけではないが 、短文のエッセイで、こう書いている。



《 しかし 、同時に彼のなかには、甘ったるい悪い酒のようなものがあった。あるいは「ふざけるな。いい加減にしろ」といいたくなるものがあった。「 ホロビ」の歌をうたっていらるのはまだ贅沢のうちである。「ホロビ」てしまっても人は黙って生きて行かなければならぬ。》(『 太宰治再訪ー桜桃忌に寄せて』)



「ふざけるな。いい加減にしろ」・・・とは、かなり強烈な言葉である。こういう過激な太宰治批判は、心の底では思っていても、なかなか、言葉にすることはない。三島由紀夫江藤淳のような過激な文学者のみが、よくなしうることだろう。



⬛️薩摩半島の山奥の限界集落にある《 古民家哲学カフェ》で、江藤淳を読む⑶。

江藤淳三島由紀夫太宰治批判、つまり《 弱さの形而上学》、ないしは《 治者の形而上学 》は、唐突に見えるかもしれないが、いわゆるニーチェの《ルサンチマン 》の哲学(『 善悪の彼岸』『道徳の系譜』『権力への意志』)に通じるものがある。ニーチェも、いわゆる《 弱者 》を、《 弱さの自己正当化 》を理由に批判した哲学者だったが、その批判の仕方は、江藤淳のそれ 、つまり《弱者の自己欺瞞》批判と、ほとんど変わらない。江藤淳を批判・嘲笑するひとたちで、ニーチェを批判・嘲笑する人はいないだだろう。何故か 。日本の一介の文芸評論家にすぎない江藤淳なら 、簡単に批判・嘲笑できるが、西欧哲学史に燦然と輝いて残るニーチェの名声の前では、誰も沈黙せざるをえないからである。いや、逆にニーチェを肯定し、過剰に絶賛するのが、この手の学者や思想家、ジャーナリストの通例である。これは、つまり、江藤淳を批判・嘲笑する人たちが 、江藤淳ニーチェも、ろくに読んでいないということを意味している。こういう悲喜劇は、我が国のアカデミズムやジャーナリズム、そして文学業界では、よくあることである。この連中は、よく勉強らしきものはしているが、何も考えていない連中だからである。
さて、では 、ニーチェは、どういう論理で、いわゆる《弱者 》を厳しく批判したのか。ニーチェの出発点は、《 弱者 》は弱者である 、という現実を認め 、肯定することである。しかし、《弱者 》は自分が弱者であるという現実を、それが弱者たる所以なのだが、なかなか受け入れない。そこで 、《自己正当化 》 を試みる。自分が弱者あのは、弱いからではなく、《 正しい 》からだ、《 善 》だからだ、だからこそ負けたのだ、だからこそ敗者になったのだ、と。自分たちは《正しい 》が故に、また《善》なるが故に 、敗者になったのだ。ここで 、ニーチェの言う《価値転倒 》が起こっている。《弱いのは正義である 》《 弱者は善人である》という価値転倒。ここに自己欺瞞がある。ニーチェキリスト教的道徳をその典型であると批判する。そして 『権力への意志』の哲学を主張する。ニーチェは《 弱者 》や《弱さ》を批判し否定したのではない。 弱者の《 自己欺瞞 》 を批判したのである。
江藤淳も同じである。江藤淳は《 図々しい弱者が嫌いだ 》と言った。《 甘ったれるのもいい加減にしろ》と言った。まさに 、これこそが ニーチェの『権力への意志』の哲学である。


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■別に興味ないけど、大谷翔平の結婚相手らしい姿が、右側の建物の影に写っている。早稲田出身の元バスケット・ボール選手の田中真美子さん? そういえば、私が、小学校の頃、当時、全国津々浦々の野球少年たちのアイドルだった長嶋茂雄が、婚約発表したことがあった。私も、柄にもなく興奮したことを 、かすかに覚えている。長嶋茂雄こそ、私が、初めて見た《 天才》だったのだ。それ以後、私は、ジャンルはちがうが、各分野の《 天才 》を追い求めて来たような気がする。美空ひばりや石原裕次郎。小林秀雄やサルトル。ドストエフスキー

■別に興味ないけど、大谷翔平の結婚相手らしい姿が、右側の建物の影に写っている。早稲田出身の元バスケット・ボール選手の田中真美子さん?

そういえば、私が、小学校の頃、当時、全国津々浦々の野球少年たちのアイドルだった長嶋茂雄が、婚約発表したことがあった。私も、柄にもなく興奮したことを 、かすかに覚えている。長嶋茂雄こそ、私が、初めて見た《 天才》だったのだ。それ以後、私は、ジャンルはちがうが、各分野の《 天才 》を追い求めて来たような気がする。美空ひばり石原裕次郎小林秀雄サルトルドストエフスキーニーチェ。J・F・ケネディが、アメリカ南部ダラスで、銃撃されたのは高校入学直後だったような気がする。私が、《 本というもの》を初めて自腹で買ったのは、ケネディの本だった。政治家にも《天才 》がいるのか 、と驚いた ものだ。その後、高校時代に大江健三郎という《 天才 》に出会ったことが、私の運命を決めた。それから今日まで 、私は、《 本 》と共に、生きてきた 。私は、《 本 》の中の天才は好きだし、尊敬・畏怖しているが、天才気取りのニセモノは嫌いだ。私は、長嶋茂雄大谷翔平は違うと思っている。私は、大谷翔平自身は自覚出来ていないと思うが、出稼ぎ労働者的な《 植民地主義 》が嫌いである。大谷翔平は《 秀才 》かもしれないが、《 天才 》ではない。何故、結婚相手を公表しないのか。何を計算しているのか。むろん公表するも、しないも自由である。しかし、私はその《計算》に潜む自己欺瞞が嫌いなのだ。私の考えでは、《 天才》に我欲や自由意志などない。長嶋茂雄を見よ。天才は常に《 無私 》(小林秀雄)である。長嶋茂雄を見よ、王貞治イチローではない。むろん、以上は、なんの根拠もない、私の単なる独断と偏見にすぎない。

⬛️吉本隆明とその時代。 私は小市民左翼が嫌いだった。平和とか民主主義とかいう左翼 、たとえば《 ベ平連》のような左翼が大嫌いだった。人畜無害な左翼が嫌いだった。いずれにしろ、そういう時、吉本隆明を読んだ。吉本隆明は 、小市民的左翼ではなかった。私が、新宿紀伊国屋で買った吉本隆明の『擬制の終焉』 だか『自立の思想的拠点』だかには 、三島由紀夫の推薦文がついていた。三島由紀夫は 、吉本隆明のラディカリズム(攻撃的な批評精神)を高く評価する文章を書いていた。さすがだ、と思った。吉本隆明の凄さと偉大さは、右

⬛️吉本隆明とその時代。

私は小市民左翼が嫌いだった。平和とか民主主義とかいう左翼 、たとえば《 ベ平連》のような左翼が大嫌いだった。人畜無害な左翼が嫌いだった。いずれにしろ、そういう時、吉本隆明を読んだ。吉本隆明は 、小市民的左翼ではなかった。私が、新宿紀伊国屋で買った吉本隆明の『擬制の終焉』 だか『自立の思想的拠点』だかには 、三島由紀夫の推薦文がついていた。三島由紀夫は 、吉本隆明のラディカリズム(攻撃的な批評精神)を高く評価する文章を書いていた。さすがだ、と思った。吉本隆明の凄さと偉大さは、右翼過激派にしか分からないのではないか、と思ったものだ。私が、最初に読んだ吉本隆明の文章は、『戦後思想の荒廃』とかいう文章だった。確か、筑摩書房の綜合雑誌『展望』の最終号で読んだように記憶している。そこには大江健三郎や姫岡玲治などが登場していた。私は、姫岡玲治が青木昌彦学生運動時代のペンネームだということも知らなかった。いずれにしろ、吉本隆明の過激な批判と批評に、私は引き込まれていった。左翼も右翼も関係なかった。当時の私は、ただ過激なものだけが好きだった。それから、吉本隆明にはまりこんでいった。吉本隆明は、小林秀雄江藤淳と同様に過激な思考を展開する過激な思想家であり、過激な文学者だった。吉本隆明は普通の左翼ではなかった。小林秀雄江藤淳のことも高く評価していた。吉本隆明の刊行する『試行』で『情況への発言』を夢中になって読んでいた。『吉本隆明詩集』や『初期ノート』を買い揃え、次に刊行が開始されたばかりの『吉本隆明全著作集』を、次々と買っていった。『 高村光太郎』や『 丸山眞男論』『 転向論』・・・などを読むことによって、私は、大きな影響を受けたが、それでも私は、小林秀雄江藤淳の方が、思想的にも文学的にも《 上だ 》と思った。というようなことを書くと、必ず、無知無能な《 元左翼》 が、出てきて、昔の左翼の党派や左翼内部の人間関係の講釈をはじめる。私は、 今頃になって、老後を楽しそうに暮らしているらしい《 元左翼》、今は小市民社会に溶け込んでいる《 年金左翼 》が嫌いだ。私は、逃亡に逃亡を続けて野垂れ死にした永遠の過激派とも評すべき《 桐島聡》を尊敬し、畏怖する。《 桐島聡》を嘲笑している元左翼の俗物が、私は、嫌いだ。過激な暴力闘争の挙句、自滅していった左翼過激派の行動を反省したり自己批判して、市民左翼へ転向していった《元左翼》が、私は嫌いだった。転向した《 元左翼 》、物知りや雑学の《元左翼》は見たくもないし 、 話したくもないと思う。要するに、私の《吉本隆明体験》は、私だけのものだ。お前たちの吉本隆明体験とは、根本的に違うのだ。というわけで、馬鹿まるだしの《 元左翼》の手によるものらしいコメントは削除し 、ブロックしました。俺は、お前ら年金左翼とは思想的次元が違うのだ。

■YouTube動画【山崎行太郎チャンネル】を配信しました。今回のテーマは 《 ボランティアの諸君よ 、能登半島なんか行くな!!!》)です。 今頃になって 、《 ボランテイアが不足》だと。あれだけ、《来るな 、来るな、来るな》と言っておいて、今になって、ボランティア不足だとは、これ如何に?ボランティアを、犯罪者かドロボーか不審者・・・呼ばわりしたのは、何処のドイツだ。ちょうどいいじゃないか。自分たちでやれよ。馳ヒロシ知事を先頭に、市役所や県庁の職員を総動員して、自分たちだけで、汗水垂らして、《 災害

YouTube動画【山崎行太郎チャンネル】を配信しました。今回のテーマは 《 ボランティアの諸君よ 、能登半島なんか行くな!!!》)です。

今頃になって 、《 ボランテイアが不足》だと。あれだけ、《来るな 、来るな、来るな》と言っておいて、今になって、ボランティア不足だとは、これ如何に?ボランティアを、犯罪者かドロボーか不審者・・・呼ばわりしたのは、何処のドイツだ。ちょうどいいじゃないか。自分たちでやれよ。馳ヒロシ知事を先頭に、市役所や県庁の職員を総動員して、自分たちだけで、汗水垂らして、《 災害復興 》とやらをやって見せてくれ。これからの災害復興の《お手本》を見せてくれ。《能登半島方式》とやらを見せてくれよ。ワシは、ビールでも呑みながら、テレビ観戦でもしよう。

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https://youtu.be/LFitsNpN2ZY?si=gUQtB-U372L0Zyye

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