山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

"宮台真司氏が退院したそうです。しかし何かヘンですね。マスコミの取材や記者会見を拒否。神保氏のYouTube動画に出演。事情説明。アンチの1/10はクズのクズだそうです。相変わらず《へらず口》は健在?" を YouTube で見る

"宮台真司氏が退院したそうです。しかし何かヘンですね。マスコミの取材や記者会見を拒否。神保氏のYouTube動画に出演。事情説明。アンチの1/10はクズのクズだそうです。相変わらず《へらず口》は健在?" を YouTube で見る

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■『王道アジア主義』の哲学的基礎《3》〜石原莞爾論〜 石原莞爾は、若い頃、ドイツに二年以上留学し、西欧の軍事史を勉強している。『 最終戦争論』も、前半は、西欧の戦争を題材にして、戦争には、短期決戦型の《 決戦戦争 》と、長期戦型の《持久戦争 》の二つの類型があると論じている。古代ギリシャ、ローマの時代の戦争から、フランス革命、ナポレオン戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)まで、この二つの戦争が、交代に、繰り返されてきたと書いている。そして、最終的に、強力な破壊力を持つ《 新兵器》を使った決戦型の残酷

■『王道アジア主義』の哲学的基礎《3》〜石原莞爾論〜

石原莞爾は、若い頃、ドイツに二年以上留学し、西欧の軍事史を勉強している。『 最終戦争論』も、前半は、西欧の戦争を題材にして、戦争には、短期決戦型の《 決戦戦争 》と、長期戦型の《持久戦争 》の二つの類型があると論じている。古代ギリシャ、ローマの時代の戦争から、フランス革命ナポレオン戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)まで、この二つの戦争が、交代に、繰り返されてきたと書いている。そして、最終的に、強力な破壊力を持つ《 新兵器》を使った決戦型の残酷極まりない《最終戦争》が、目前に迫っている。その《最終戦争》が終わると、世界が統一され、平和が訪れる。その《最終戦争》こそ、太平洋をはさんで対峙する日本と米国が対決する《日米戦争》ではないか、と。つまり、石原莞爾によると、《日米戦争》こそ《 最終戦争 》なのである。
石原莞爾戦争論の背後には 、西欧合理主義的論理による軍事研究と 、日蓮宗やその系譜の田中智学の国柱会を中心とする仏教思想がある。特に最終戦争から世界の統一、平和の実現・・・西方極楽浄土の実現(?)・・・というモチーフには、仏教思想の影響が濃厚のように見える。石原莞爾は、『最終戦争論』の末尾に「仏教の予言」という一章をもうけて、仏教思想や日蓮宗、あるいは国柱会の思想を、かなり詳しく論じている。

《私は宗教の最も大切なことは予言であると思います。仏教、特に日蓮上人の宗教が予言の点から見て、最も雄大で精密を極めたものであろうと考えます。 》(石原莞爾『最終戦争論、戦争史大観』)

これらの発言から 、石原莞爾は 、《 宗教 》とか《 予言 》というような非合理的匂いのする言葉を使いながら、極めて理性的 、合理的な思考態度を失っていないと言っていい。逆に言えば、石原莞爾が、田中智学の《 国柱会 》に強く惹かれたのは、それが、《 最も雄大で精密を極めた》・・・合理的な理論体系を備えていたからだと思われる。

⬛️『王道アジア主義』の哲学的基礎《2》〜石原莞爾論〜 《国柱会》とは、田中智学が、日蓮宗を土台に、新しく起こした宗教団体で、その主要思想は、《国柱会》という文字が示すように、《国の柱になれ!》という思想だ。宗教というのは、一般的に《個人主義》というか、《個人の救済》が中心だが、国柱会は 個人の救済より前に、《国》つまり《国家》を優先し 、《国家の救済》があってこそ、《個人の救済》も可能だという宗教思想だ。たとえば、宮澤賢治は、《全ての人が幸せにならない限り、私の幸せはない。》という趣旨のことを言ってい

⬛️『王道アジア主義』の哲学的基礎《2》〜石原莞爾論〜

国柱会》とは、田中智学が、日蓮宗を土台に、新しく起こした宗教団体で、その主要思想は、《国柱会》という文字が示すように、《国の柱になれ!》という思想だ。宗教というのは、一般的に《個人主義》というか、《個人の救済》が中心だが、国柱会は 個人の救済より前に、《国》つまり《国家》を優先し 、《国家の救済》があってこそ、《個人の救済》も可能だという宗教思想だ。たとえば、宮澤賢治は、《全ての人が幸せにならない限り、私の幸せはない。》という趣旨のことを言っている。誤解を恐れずにいえば、個人主義から国家主義への思想的転換をはかったヘーゲルの国家論に近いと言っていいかもしれない 。要するに、《個体》より《全体》を重視、優先する思想だ。それ故に、国家論や政治問題に強烈な関心を持つ。全体や国家の問題は、《政治》と密接に結びついているからだ。

⬛️王道アジア主義の哲学的基礎〜石原莞爾論〜 坪内隆彦氏の新著『木村武雄の日中国交正常化』《望楠書房》という本を読んでいるうちに、いろいろ、思いつくことがあったので、思いつくままに、感想を記しておきたい。《 日中国交正常化》は、田中角栄内閣の時代に実現したとおもっていたが・・・。その裏で、日中を股にかけて飛び回り、《 日中国交正常化 》に向けて精力的に動いていた男がいた。それが木村武雄だった。木村武雄は、戦前から、石原莞爾の薫陶を受けた筋金入りの《アジア主義者》だった。では、その《アジア主義》とは何か。

⬛️王道アジア主義の哲学的基礎〜石原莞爾論〜

坪内隆彦氏の新著『木村武雄の日中国交正常化』《望楠書房》という本を読んでいるうちに、いろいろ、思いつくことがあったので、思いつくままに、感想を記しておきたい。《 日中国交正常化》は、田中角栄内閣の時代に実現したとおもっていたが・・・。その裏で、日中を股にかけて飛び回り、《 日中国交正常化 》に向けて精力的に動いていた男がいた。それが木村武雄だった。木村武雄は、戦前から、石原莞爾の薫陶を受けた筋金入りの《アジア主義者》だった。では、その《アジア主義》とは何か。正確に言うと、《 王道アジア主義 》とは何か。木村武雄は 、山形県米沢市に生まれ、明治大学を出た後、故郷に帰り、農民救済運動を土台に、地方政治家として出発する。当時、東北地方の農村は不況のどん底tにあえいでいた。有名な《娘たちの身売り》が頻発していたのもこの頃だった。坪内隆彦は、こう書いている。

昭和8年(1933) 年末から一年間で、芸妓 、娼妓、酌婦、女給になった農家の娘たちの数は、東北六県で一万六千余名に達したという。ーー食う米もなく、夜逃げや娘の身売りを強いられている農民を救わなければならない。そのためには、農民自身が立ち上がり、声を上げなければならない。自分は農民の先頭に立って戦う。木村は、そう決意した。》(坪内隆彦)

木村武雄の農民運動の原点はここにあった。たが、それに、限界を感じたのか、木村武雄は、同じく山形県出身の軍人・石原莞爾を訪ね、 この郷土の大先輩の薫陶を受け、大きな思想的影響を受けることになる。木村武雄の《 王道アジア主義 》は、石原莞爾の《王道アジア主義 》を受け継ぐものであり、木村武雄の《王道アジア主義 》を知るには、石原莞爾を知る必要がる。石原莞爾と言えば、多くの人が知っているように、名著『世界最終戦論』(または『 最終戦争論』)の著者である。軍人ではあったか、ただの軍人ではない。軍人でありながら、歴史的名著を残すぐらいだから、一種の《 思想家 》であり《 哲学者 》でもあったというべきだろう。石原莞爾は、また田中智学の《国柱会》のメンバーでもあり、《日蓮宗》の熱心な信者でもあった。近代合理主義的な知識人、思想家ではなく、合理主義を超越した反合理主義的な、宗教的な資質と感受性を持つ知識人であり、思想家だった。ここが、並の軍人や知識人、学者、思想家と、決定的に違うところだ。我々は、石原莞爾の思想や哲学が、単なる欧米近代思想の受け売りでも、その理論の寄せ集めでもなかったことを、知っておく必要がある。石原莞爾は、自分の知性と感受性に思考の土台を置いた、文字通りオリジナルな思想家であり哲学者だったのだ。では、石原莞爾の《思考の土台》とは何だったのか。その一つが、日蓮宗 、つまり法華経信仰であった。坪内隆彦は、こう書いている。

《しかし、石原は教育総監部のあり方に疑問を持ち、満たされないものを感じていた。こうした中で、彼は大正八(1919)年に田中智学の所説にひかれ、日蓮主義の思想団体「国柱会 」に入会する。石原は、法華経信仰に至る心情を次のように振り返っている。》(坪内隆彦)

次は、石原莞爾自身の文章である。坪内隆彦の著書から孫引きする。

《(六十五連隊時代の)猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の情であり、心を悩ますものはこの一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信仰 、感激をたたきこむかにあった。……遂に私は日蓮上人に到達して真の安心を得、大正八年漢口に赴任前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮上人の『前代未聞の大闘じょうの一閻浮堤に起こるべし』は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。》(石原莞爾『』)

石原莞爾「軍事研究」の背後には《日蓮宗》、特に田中智学の《国柱会》の信仰があった。「兵 」にたたきこむべき精神の原動力は、何処にあるのか。それは、知識や理論ではない。知識や理論では「兵 」は、動かない、ということであろう。そこで、石原莞爾が到達したのが、《国柱会 》であり、《法華経》であった、ということであろう。つまり、石原莞爾の『 世界最終戦論』のアイデアも、宗教的信仰から得たものであり、《王道アジア主義 》という思想も 、そこに起源を持っている、と言っていい。ところで、《国柱会 》というと、その熱狂的な、あるいは狂信的とも言うべき、もう一人の信者が思い出される。《 宮澤賢治》である。童話作家、詩人として有名な宮澤賢治である。時代も重複している。石原莞爾宮澤賢治。この二人を魅了した《国柱会》とは何か。

⬛️山川方夫と江藤淳とサルトル。 私が、山川方夫に強い関心をもつようになったのは、江藤淳を読むようになってからだった。江藤淳は、日比谷高校時代の友人安藤元雄が主宰する同人雑誌『PURETE』に発表した「マンスフィールド覚書」を読んだ『三田文学』編集長の山川方夫から、人伝に、声をかけられた。一回目はことわったが、再度、原稿を見せて欲しいという誘いがあったため、それには応じることにした。江藤淳は、『三田文学』に対してそれまであまり関心がなかったが、とりあえず銀座にあった『三田文学』編集室を訪ねてみることにし

⬛️山川方夫江藤淳サルトル

私が、山川方夫に強い関心をもつようになったのは、江藤淳を読むようになってからだった。江藤淳は、日比谷高校時代の友人安藤元雄が主宰する同人雑誌『PURETE』に発表した「マンスフィールド覚書」を読んだ『三田文学』編集長の山川方夫から、人伝に、声をかけられた。一回目はことわったが、再度、原稿を見せて欲しいという誘いがあったため、それには応じることにした。江藤淳は、『三田文学』に対してそれまであまり関心がなかったが、とりあえず銀座にあった『三田文学』編集室を訪ねてみることにした。それが、江藤淳山川方夫の《運命的交流 》の始まりだった。

《 私は昨日のことのように覚えている。自分がまだ慶應義塾英文科の学生で、将来について何の計画も持てぬままに、その頃銀座の並木通りにあった「三田文学」編集室を訪れた時のことを。そこには私より三つか四つ年長の青年がいた。それが山川と私の最初の出逢いであった。 》(「夏目漱石」新版への序)

江藤淳は、この時の《 運命的 交流》のはじまりについて、何回も書いている。《文芸評論家=江藤淳 》の誕生秘話と言っていい。秘話を知って以来、《 山川方夫》という編集者であり、作家でもあった人物に、興味を持つようになった。《文芸評論家=江藤淳 》を発見し、発掘した人物。しかも、自分のことは忘れたかのように 、精力的に 文壇デビューを後押し、見まもり続けた人物。江藤淳も、山川方夫について、次のように書いている。

《それにしても、何故あのとき山川が、私の最初の仕事にあれほど肩を入れてくれたのか、いまだに私にはよくわからない。それが友情というものなら、友情とは怖いほど無私になり得るものである。》(同上)

友情から無私へ。江藤淳が、山川方夫の友情を、《無私》という言葉で表現しようとしたことは、重要である。《無私》という言葉から、私は、すぐに小林秀雄の《無私の精神》を連想するが、《無私》とは、私的に言えば、イデオロギー的なではなく、存在論的ということである。

⬛️山川方夫と江藤淳とサルトル。 私が、山川方夫に強い関心をもつようになったのは、江藤淳を読むようになってからだった。江藤淳は、日比谷高校時代の友人安藤元雄が主宰する同人雑誌『PURETE』に発表した「マンスフィールド覚書」を読んだ『三田文学』編集長の山川方夫から、人伝に、声をかけられた。一回目はことわったが、再度、原稿を見せて欲しいという誘いがあったため、それには応じることにした。江藤淳は、『三田文学』に対してそれまであまり関心がなかったが、とりあえず銀座にあった『三田文学』編集室を訪ねてみることにし

⬛️山川方夫江藤淳サルトル

私が、山川方夫に強い関心をもつようになったのは、江藤淳を読むようになってからだった。江藤淳は、日比谷高校時代の友人安藤元雄が主宰する同人雑誌『PURETE』に発表した「マンスフィールド覚書」を読んだ『三田文学』編集長の山川方夫から、人伝に、声をかけられた。一回目はことわったが、再度、原稿を見せて欲しいという誘いがあったため、それには応じることにした。江藤淳は、『三田文学』に対してそれまであまり関心がなかったが、とりあえず銀座にあった『三田文学』編集室を訪ねてみることにした。それが、江藤淳山川方夫の《運命的交流 》の始まりだった。

《 私は昨日のことのように覚えている。自分がまだ慶應義塾英文科の学生で、将来について何の計画も持てぬままに、その頃銀座の並木通りにあった「三田文学」編集室を訪れた時のことを。そこには私より三つか四つ年長の青年がいた。それが山川と私の最初の出逢いであった。 》(「夏目漱石」新版への序)

江藤淳は、この時の《 運命的 交流》のはじまりについて、何回も書いている。《文芸評論家=江藤淳 》の誕生秘話と言っていい。秘話を知って以来、《 山川方夫》という編集者であり、作家でもあった人物に、興味を持つようになった。《文芸評論家=江藤淳 》を発見し、発掘した人物。しかも、自分のことは忘れたかのように 、精力的に 文壇デビューを後押し、見まもり続けた人物。江藤淳も、山川方夫について、次のように書いている。

《それにしても、何故あのとき山川が、私の最初の仕事にあれほど肩を入れてくれたのか、いまだに私にはよくわからない。それが友情というものなら、友情とは怖いほど無私になり得るものである。》(同上)

友情から無私へ。江藤淳が、山川方夫の友情を、《無私》という言葉で表現しようとしたことは、重要である。《無私》という言葉から、私は、すぐに小林秀雄の《無私の精神》を連想するが、《無私》とは、私的に言えば、イデオロギー的なではなく、存在論的ということである。

⬛️江藤淳の「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(4)。江藤淳と埴谷雄高-丸山眞男。 江藤淳の「小林秀雄」論の背後には、《 60年安保》があるが、もっと具体的に言えば、埴谷雄高や丸山眞男等がいる。江藤淳は、「小林秀雄」論を連載しながら 、埴谷雄高や丸山眞男等との複雑な関係のなかにいた。特に結婚して、新居をかまえた吉祥寺時代に 、埴谷雄高とは微妙な関係にあった。つまり、江藤淳は、埴谷雄高との親密な《師弟関係 》にあった。埴谷雄高からの思想的影響もかなり受けている。『作家は行動する』における《小林秀雄批

⬛️江藤淳の「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(4)。江藤淳埴谷雄高-丸山眞男

江藤淳の「小林秀雄」論の背後には、《 60年安保》があるが、もっと具体的に言えば、埴谷雄高丸山眞男等がいる。江藤淳は、「小林秀雄」論を連載しながら 、埴谷雄高丸山眞男等との複雑な関係のなかにいた。特に結婚して、新居をかまえた吉祥寺時代に 、埴谷雄高とは微妙な関係にあった。つまり、江藤淳は、埴谷雄高との親密な《師弟関係 》にあった。埴谷雄高からの思想的影響もかなり受けている。『作家は行動する』における《小林秀雄批判》も、その一つだろう。しかし、「小林秀雄」論を連載する過程で、その後の転居も重なって 、埴谷雄高とは疎遠になり、やがて思想的にも決別し、そして逆に、今度は、対立し、論争する関係へと変貌していく。それは、埴谷雄高サイドからみると、江藤淳の《 転向 》と《変節 》を意味していた。しかし、それを江藤淳の側から みれば、どういうことを意味していただろうか。