山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

藤田東湖と水戸学派(2) 水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。

藤田東湖と水戸学派(2)

水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。
『回天詩史』における藤田幽谷・東湖父子の「イギリス船員皆殺し」の会話の場面は、後期水戸学を象徴する場面のようにみえる。面白いので、ちょっと詳しくみてみよう。『 回天詩史』の冒頭に、次のように記している。

《 余は融通のきかぬ愚か者で、幕府に罪に問われ、家に閉じこもって謹慎を守っていたが、そのおり静かに過去を振りかえってみるに、死を決意して、しかも死ななかったことがこれまでにすべて三度あった。》

藤田東湖の『 回天詩史』はこういう文章で始まっているが、ここで、「死を決意して・・・」という言葉に注目しよう。藤田東湖の思想の本質が、さらには水戸学派の思想の本質が現れているからだ。そこで、その「死を決意」した最初が、一九歳の時のイギリス船員の「皆殺し」を決意する場面だったというわけである。父・藤田幽谷が息子に与えた言葉が 、面白い。
《 最近、毎年のように外夷が近海をうかがい、ときには大砲をとどろかせてわが人民をふるえあがらせており、その傲慢無礼はたとえようもない。しかるに世間の者は引っ込み思案で、事なかれ主義を好んでおられるから 、ひょっとしたら放還方針をとり、一時のがれの平穏を保とうとするのじゃないかと、わしはそれを恐れる。そんな結果になろうものなら、この堂々たる神州に具眼の士は一人もいないことになる。わしはそれがはずかしくてならん。おまえは急いで大津村に行け。こっそり情勢を見て、もし放還方針が決まったことがはっきりしたら、まっしぐらに異人の小屋にとびこみ、腕をふるって奴らを皆殺しにせい。そうしてのち、悪びれずに 役人に自首し、裁きを受けるがよい。これは一時的な方便というももだが、少しは日本国の元気を発揚するぐらいのことは あろう。わしには不幸にも、娘が多く、男の子はおまえしかいない。そのおまえが死ねばわし家系は絶える。そのときは、わしにもおまえにも天命がつきるわけだが、おまえはそれを気にしてはならんぞ》(中央公論『世界の名著=藤田東湖 』)
この父・藤田幽谷の言葉を聞き終えた藤田東湖は、「かしこまりました」と答えた。すると、父は、泣きながら 、「それでこそわしの児じゃ」と言う。そこで、さっそく、旅の準備に取り掛かった。その直後、来客があり 、酒宴となったために、親子の「別れの盃」ということになったが、その酒宴の最中に、大津村から急報が届き、イギリス船は、燃料と水えお与えて 帰したということで、一件落着ということになった。
異国船打払令」が 、幕府から出るのは翌年である。私は、この一件から、水戸学、ないしは水戸学派というものについて、私なりの幻想を持つ。私は、思想の本質は、結果ではなく、その思想の形成過程に、あるいはその思想の誕生過程(起源)にあると思っている。たとえば、私は、生き残った者や成功した者達の証言や書き残したものを、あまり重視しない。たとえば、西郷南洲についての証言類も、福沢諭吉勝海舟、あるいは大隈重信・・・等の「証言」を含めて信用しない。水戸学についても同じだ。水戸学は 、体制擁護の御用学でもなく、現状維持や立身出世を目指す「学問のための学問」でもなかった。明治維新の成果と果実を、分け与えられることがなかったとしても、当然であろう。水戸学の精神には、栄耀栄華や地位、名誉・・・などを求める世俗的野心はなかった。西郷南洲藤田東湖に共通するものがあったとすれば、この点だろう。たとえば、私は、藤田東湖亡き後、全滅した水戸「天狗党」の悲劇を、西郷南洲の「西南戦争」の悲劇と同列に考える。
あまりにも有名になりすぎたために 、世俗にまみれすぎ、その真意が忘れられ、形骸化した言葉に、私は嫌いな言葉だが、『 西郷南洲翁遺訓』に、こんな言葉がある。

《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。》(『 西郷南洲翁遺訓』)
この言葉が語られる度に 、私は 、人間というものの宿命について自己嫌悪に陥るが、それはともかくとして、この言葉の出どころは、藤田東湖あたりにあったのではないか 、と私は勝手に想像する。