水戸光圀と水戸学派(2)
水戸光圀は、「水戸黄門」として知られているが、「水戸黄門」のイメージだけで、「水戸光圀のすべて」が語り尽くせるわけではい。水戸光圀は、学問好きであり、とりわけ「歴史」というものに、一風、変わった学問的関心を持ち続けていたようである。徳川幕府の誕生とともに、戦乱の時代が終わり、平和の時代になると、世間の関心も、次第に内面的方向に向かい始め、学問や思想 、文化方面への関心が強くなる。とりわけ 、水戸光圀の時代には、歴史への関心が、高まっていた。そうした時代背景の元に、水戸光圀の「歴史」への関心も深くなっていったが、水戸光圀の「歴史」は、その種の常識的、流行的なものとは少し異なっていた。水戸光圀の「歴史」は、単なる「歴史的」なものを超えて、「歴史哲学的」なものだった。当時 、幕府が、林羅山、林鵞峯(春斎)父子が中心になって編纂した歴史書として『 本朝通鑑』があったが、水戸光圀は、その内容に反対だった。それが、水戸藩独自で、歴史書を編纂するという動機ともなったようだ。水戸光圀は、幕府公認のイデオロギーを、鵜呑みにして、それを繰り返すだけの 、幕府内部の立身出世的な階段を登っていこうとする俗物エリート的発想とは異なる発想の持ち主だった。