山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

*存在論としての漱石論。 《 しかし、ぼくらは野暮な仕事からはじめなければならぬ》と、23歳の大学生である江藤淳は、処女作『夏目漱石 』で書いている。批評家・江藤淳の「独立宣言」と言ってもいい文章だ。「野暮な仕事」とは何か。

存在論としての漱石論。

《 しかし、ぼくらは野暮な仕事からはじめなければならぬ》と、23歳の大学生である江藤淳は、処女作『夏目漱石 』で書いている。批評家・江藤淳の「独立宣言」と言ってもいい文章だ。「野暮な仕事」とは何か。逆に、「野暮でない仕事」とは何か。意味不明な漠然とした言葉である。しかし、私には、一読して、この言葉が、何を意味するかが分かったような気がした。江藤淳は、「何か」に激しく反抗し、「何か」に激しく反逆している。「何か」とは何か。それは「文学」である。『 夏目漱石』の冒頭に、こう書いている。
《日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけには行かない。西欧の作家達は堅個な土台を持っている。ぼくらはその上に建っている建物のみを、あるいはその建物の陰にいる大工のみを論ずればよい。つまりこれは、これが果して文学だろうか?などという余計な取越苦労をしないでも済むといった程度の意味である。》(『夏目漱石 』)
江藤淳は、「西欧の作家達は 堅個な土台を持っている 」と言う。しかし、日本の文学にはその「 堅個な 土台」なるものがない、と。これは、どういうことだろうか。西欧の作家達には共通の土台があり、その土台の上で創作活動に励んでいるが、日本の作家達は、その土台を新しく構築することから、創作活動を始めなければならなかった、ということだろう。言い換えるなら 、江藤淳の「批評」は、「土台そのもの」を問う批評であった。では、ここで、江藤淳が言う「土台」とは何か。土台とは、我々が思考したり、創作したり、あるいは言論活動全般を行う時、自明の前提とする「パラダイム」(トーマス・クーン)、あるいは「エピステーメ」(ミチェル・フーコー)のようなものだろう。江藤淳は、それを、分かりやすく「土台」と呼ぶのだ。
そして、江藤淳は、日本の文学の「土台」にこだわるのだ。たとえば日本の作家達について、あるいは日本の文学について言う。
《 文学を学ぼうとする向きは、欧米の文学を学べばいいので、日本の作家達を 相手にしている時には事情はそれほど単純ではない。彼らを問題にしようとすれば、先ず、彼らの作品の成立っている土台から問題にしてかからなければならないので、建物の見かけがよくても地盤が埋立の急造分譲地並にゆるんでいれば、値切り倒すのが周旋屋の習性である。》
江藤淳が「ぼくらは 、野暮な仕事からはじめなければならなぬ」というのは、そういうことである。つまり、「野暮な仕事から」とは、「土台」を点検・吟味することから・・・ということである。
文壇や文学研究者の世界には、文学は「作品がすべてだ」という根強い偏見がある。作者や作者の「人生=生活」、あるいは時代背景・・・を問題にするのは、邪道であるというような偏見である。最近は、それを「テキスト論」とか「テキスト論的批評」とか呼ぶらしいが、少なくとも江藤淳は 、ここで、そういう批評を批判、排除している。江藤淳という批評家が、しばしば、警戒され、恐れられ ると同時に、 批判され 、冷笑され、無視される原因が 、ここにある。