山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

藤田東湖と西郷南洲(3-2) 西郷南洲と藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台から消えていく。残された西郷南洲にとって、嘆き悲しむ余裕も時間もなかった。まさに歴史は激動の時代へと入っていく。西郷南洲は、藤田東湖の「死亡」と共に、その遺志を受け継ぐかのように、藩主島津斉彬の手足となり、政治の前面に登場し、目覚しい活躍をする。この頃の政治は、


藤田東湖西郷南洲(3-2)

西郷南洲藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台から消えていく。残された西郷南洲にとって、嘆き悲しむ余裕も時間もなかった。まさに歴史は激動の時代へと入っていく。西郷南洲は、藤田東湖の「死亡」と共に、その遺志を受け継ぐかのように、藩主島津斉彬の手足となり、政治の前面に登場し、目覚しい活躍をする。この頃の政治は、どちらかと言えば、水戸藩を中心に動いていた。しかし、藤田東湖や戸田忠太夫等、いわゆる水戸学派の大学者=大思想家を喪った水戸藩は、迷走の兆しをみせはじめていた。そこで、薩摩藩水戸藩、あるいは京都の朝廷との仲介役として八面六臂の活躍をするのが西郷南洲だった。まだ、江戸に着いてから2 、3年後のことだ。私は、本稿の冒頭で、福澤諭吉の「西郷南洲には学がなかった」という言葉に違和感を感じると記したが、福澤諭吉は、もちろん、当時、群を抜く大思想家であったが、やはり、福澤諭吉もまた、西郷南洲を擁護しながらも、「西南戦争」での惨敗という歴史的事実に振り回されていたと思われる。歴史はもちろん「結果」が重要である。しかし、結果論だけでは見えないものもある。たとえば、凡庸な歴史学者、凡庸な歴史研究者には見えない「何ものか」である。たとえば、ハイデッガー存在論哲学では、「存在」と「存在者」を区別する。存在と存在者とは同じではない 、と。見える存在と見えない存在の差異・・・。藤田東湖内村鑑三中江兆民・・・等には、その「何ものか」が見えていたのだろう。私は、藤田東湖は、自分の遺志を受け継いでくれる後継者として、西郷南洲を見ていたと思う。おそらく、まだ「一年半」の交流しかしていない薩摩出身の若者に、何かを見ていたはずである。わずか「一年半」の交流に過ぎなかったが、藤田東湖の「遺志」は、確実に受け継がれたのである。そして、西郷南洲自身も、その期待をひしひしと感じていただろう。西郷南洲は、この頃から、「自分は、いつ死んでもいい」、「命懸けで・・・」、政治活動に打ち込むと言いはじめる。