山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記(続)』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) yamazakikoutarou4669@gmail.com

藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々々々)です。 水戸光圀(水戸黄門)は、「学問好き」だったにも関わらず、「学校」を作ることには、反対だったというが、いったい、何故、反対だったのか。この問題は、水戸学派にとっても、あるいは水戸学派以外においても、「学校」というものを考える時、無視できない重要問題だろう。言い換えれば、ここに、水戸学の思想的真髄もあるのではないか。普通の常識論から考えるならば、「学問」を深め、発展させるためには、まず「学校」を建て、そこで、集中的




藤田東湖西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々々々)です。

水戸光圀(水戸黄門)は、「学問好き」だったにも関わらず、「学校」を作ることには、反対だったというが、いったい、何故、反対だったのか。この問題は、水戸学派にとっても、あるいは水戸学派以外においても、「学校」というものを考える時、無視できない重要問題だろう。言い換えれば、ここに、水戸学の思想的真髄もあるのではないか。普通の常識論から考えるならば、「学問」を深め、発展させるためには、まず「学校」を建て、そこで、集中的に学問に励むべきだと考えるだろう。しかし 、水戸光圀は 、そうは考えなかった、と藤田東湖は言う。学校を作らない、学校を否定する、と。水戸光圀藤田東湖も、学問や学校 、教育について、何か深い問題を見ているようにみえる。要するに、「学校で学ぶ」という姿勢と方法について、水戸学派は懐疑的だったのだ。
《 詩文を学ぶ学者は、ともすれば「五行並び下り、万言たちふぉころに就る。」(五行ほどの文章を流れるように読み下し、一万字もの文章をたちまち作り上げる)などといって得意がる。ところがそういうものを役人にして事務をさばかせると、あるいは細事に拘泥して自我を押し通し、ために人望を失ってしまうか あるいは、文雅風流にうつつをぬかして、人民の苦痛を気にもかけなかったりする。また武を学ぶものはともすれば「七書に通じ、八陣を明らかにす」(あらゆる兵書に通じ、あらゆる陣法を心得ている)などと得意がる。ところがそれに軍隊を指揮させ、兵士の訓練を行なわせてみると、その号令ぶりは不明確で、隊列も整頓できない。格好だけのものであるか、でなければ 、子どもの遊び同様のものである。(中略)これでは天下は危いというほかはない。実用的学問をしないことの欠点はこれである。》

ここで、藤田東湖は、いわゆる机上の空論、つまり「学問のための学問」「教養としての学問」「知識としての学問」の弊害を指摘している。これらは、現代にも通じる「学校」や「大学」「学問」というものの弊害である。水戸光圀は、「学校」を作ることの意味をよく見抜いていた、と言うべきだろう。学校(大学)によって学問は滅びるのではないか。と。だから 、水戸光圀は、「学校」を建てるのではなく、「漫遊」の旅に出たのである。水戸光圀は、「漫遊」(歩く集会)の中に学問はあると考えていたように思われる。言い換えれば、水戸光圀は、誤解を恐れずに言えば、ソクラテスのように、「広場(アゴラ)」の哲学者だったのだ。ギリシャ哲学は、ソクラテスにはじまり、プラトンを経て、アリストテレスで集大成へ向かうと考えるのが普通の哲学史的常識だが、しかし、それに異を唱える人は 、ニーチェを筆頭に少なくない。そういう人たちは、必ず「ソクラテスへ帰れ」と叫ぶのが恒だが、「ソクラテスへ帰れ」とは、いったい、どういうことだろうか。ソクラテスは、何も書き残さなかったし、学校も作らなかったし、もちろん、学校で教えることもなかった。ソクラテスは、大衆とともにあり、文字通り、広場の哲学者だった。プラトン以後、哲学は「アカデミア」という建物中に移った。その時、広場(アゴラ)で哲学していたソクラテスの「哲学」は、いかにプラトンが正確に書き残そうと、失われる。プラトンから学問や哲学の「形骸化」が始まる。