山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■日比谷高校時代の江藤淳の光と影。 江藤淳は、日比谷高校時代を振り返って、次のように書いている。 《 私のかよっていた学校は永田町にあって、東大合格者の数が全国一なので有名だったが、年に二、三人ずつ自殺者や自殺未遂者が出た。学校がつめこみ教育をするからというより、生徒のあいだに異様な緊張を強いる雰囲気があって、それに耐えられなくなった者がなにかのはずみに死ぬのである。/疎開先から中学三年の二学期に転入して来た私は、成績はあまり悪くなかったが、結局この学校になじめなかった。》(『日本と私』) 《

■日比谷高校時代の江藤淳の光と影。

江藤淳は、日比谷高校時代を振り返って、次のように書いている。
《 私のかよっていた学校は永田町にあって、東大合格者の数が全国一なので有名だったが、年に二、三人ずつ自殺者や自殺未遂者が出た。学校がつめこみ教育をするからというより、生徒のあいだに異様な緊張を強いる雰囲気があって、それに耐えられなくなった者がなにかのはずみに死ぬのである。/疎開先から中学三年の二学期に転入して来た私は、成績はあまり悪くなかったが、結局この学校になじめなかった。》(『日本と私』)

《 私が結核になり、高校三年を二回やり、東大に落ちて、慶応の制服制帽で 教員室にあいさつに行くと、
「君、慶応は経済かね? なに文科? 君も案外伸びなかったね 」
といわれたものである。それ以来私はこの学校を訪れたことがない。同窓会というものにもほとんど出ない。私のなかにこの学校に対するなつかしさが生まれかけると、
「君、慶応は経済かね? なに文科?」
という声がどこからかきこえて来て、それを吹きはらってしまうからだ 》(同上)

江藤淳は、自分の母校を「日比谷高校」とは書かずに「この学校」と書いている。江藤淳が、「この学校」に距離と嫌悪と絶望を感じているということだろう。「灰色の青春」とか「暗い青春」とかいう言葉があるが、江藤淳のこの文章を読むかぎり、そういう印象をぬぐえない。しかし、現実はちがうようだ。現実はどうだったのか。
それにしても、江藤淳が、「慶応の制服制帽」で、日比谷高校の教員室にあいさつに行ったということに、私は驚く。「東大合格がすべて」である日比谷高校という「この学校」の教員室で、何が語られ、何が論じられているかということが、江藤淳には想像できなかったのだろうか。この時、江藤淳は、「東大に落ち」たことに、なんの屈辱も、なんの挫折も、恥も感じていない。おそらく、江藤淳には、「自分の行きたい大学に行ったのだ」「私は、俗物ではない」「自分は学問・研究をするために大学にくのだ」という誇りと余裕があったのではないか。そして、意気揚々と、日比谷高校の教員室に向かったのではないか。日比谷高校の教員なら、日夜、受験教育に明け暮れているとはいえ、それを 、理解してくれるはずだと思ったのではないか。江藤淳は「負け組」でも「落ちこぼれ」でもなかった。しかし、「君、慶応は経済かね? なに文科?」という俗物丸出しの下卑た言葉を聞いた時、江藤淳は、ここは、自分の来るべき場所ではない、ここには学問も文学も思想もない、受験産業の走狗としての教員たちしかいない 、と思ったのではないだろうか。江藤淳は「純粋」だったと言わなければならない。学問や文学、あるいは思想の追究、研究のために大学を目指していたのだ。「東大」も、江藤淳にとっては、世俗主義的な上昇志向に凝り固まった俗物たちが集まる「日本一の就職予備校」に過ぎなかった。江藤淳は、かなり早くから、「慶応仏文科」を第一志望にしていた。浪人中の同級生=藤井宏昭に会うと(江藤淳は休学で一年遅れていた)、「東大には、行かないよ。慶応の文科に行くんだ」と、意気揚々と宣言した。藤井宏昭は、日比谷高校時代は「小説家志望」だったが、東大教養学科を経て外務省入り、後に「駐英大使」になっているという。その藤井宏昭が、次のような証言を残している。
《 自分の進路をしっかり考えて 、外にも公言するのは大したものだと、その時、彼を見直しました。頭のいい才人で、取り澄ました所がある奴だったけど、それですっかり尊敬してしまいました。》(平山周吉『 江藤淳は甦る』から)
この証言には、「社交辞令」や「お世辞」もいくぶん含まれているかもしれないが、私は、この証言は信じてもいいと思う。

江藤淳が、日比谷高校二年の頃、日比谷高校が、「東大合格者数」で 、小石川高校に抜かれたことがあったらしい。当時の菊池校長が 、生徒集会で、「首位奪還」を叫び 、生徒たちに奮起を促したところ、江藤淳(江頭淳夫)等、生徒たちが、例によって、次々と壇上に駆け上がり、反論の演説をぶち上げたらしい。中でも、江藤淳の「演説」は、目立った。日比谷高校から東大文学部を経て、毎日新聞に入り、社長にまでなった斎藤明は、「日比谷高校の江藤淳」(「文芸春秋」平静12、9)というエッセイで、こう書いている。(平山周吉『 江藤淳
甦る』に詳しい。)
《敢然と反撃を試みた論客のうち、一際鮮やかな演説を繰り広げたのが江頭だっつた 》
《 「釈迦やキリスト、マホメット、彼ら偉大な思想家が、どこの大学出たのかと詮索するものがどこにいようか。大学を出たから偉いとは限らない」と集会で颯爽と語る江頭に、やんやの喝采がまきおこった》
《 日比谷高校時代の江頭を一言で表すなら、早熟の天才ーー。これ以外の言葉が見つからない》
《 いつもベレー帽をかぶって、小脇に本を抱えている。回りの同級生たちがマルクス・エンゲルスの洗礼を受けはじめたころには、一人サルトルを手にしている
、といった調子だった。》
以上が 、齋藤明(東大文 、毎日新聞社長)が描く江藤淳(江頭淳夫)の姿である。この斎藤明の言葉から分かるように、日比谷高校時代の江藤淳は、「負け犬」でも「落ちこぼれ」でもなかった。むしろ逆だった。江藤淳は、秀才たちが集う日比谷高校でも、ひときわ目立つ「早熟の天才」だったのだ。それを、日比谷高校の教員たちが理解出来なかったはずはない。教員たちの中には、江藤淳の早熟の「才能」に早くから気づき、それを大事に育てようとした教師たちもいた。





■日比谷高校時代の江藤淳の光と影。

江藤淳は、日比谷高校時代を振り返って、次のように書いている。
《 私のかよっていた学校は永田町にあって、東大合格者の数が全国一なので有名だったが、年に二、三人ずつ自殺者や自殺未遂者が出た。学校がつめこみ教育をするからというより、生徒のあいだに異様な緊張を強いる雰囲気があって、それに耐えられなくなった者がなにかのはずみに死ぬのである。/疎開先から中学三年の二学期に転入して来た私は、成績はあまり悪くなかったが、結局この学校になじめなかった。》(『日本と私』)

《 私が結核になり、高校三年を二回やり、東大に落ちて、慶応の制服制帽で 教員室にあいさつに行くと、
「君、慶応は経済かね? なに文科? 君も案外伸びなかったね 」
といわれたものである。それ以来私はこの学校を訪れたことがない。同窓会というものにもほとんど出ない。私のなかにこの学校に対するなつかしさが生まれかけると、
「君、慶応は経済かね? なに文科?」
という声がどこからかきこえて来て、それを吹きはらってしまうからだ 》(同上)

江藤淳は、自分の母校を「日比谷高校」とは書かずに「この学校」と書いている。江藤淳が、この学校に距離と嫌悪感と絶望を感じているということだろう。「灰色の青春」とか「暗い青春」とかいう言葉があるが、江藤淳のこの文章をよむかぎり、そういう印象をぬぐえない。
それにしても、江藤淳が、「慶応の制服制帽」で、日比谷高校の教員室にあいさつに行ったということに、私は驚く。「東大合格がすべて」である日比谷高校という「この学校」の教員室で、何が語られ、何がなんでも論じられているかということが、江藤淳には想像できなかったのだろうか。この時、江藤淳は、「東大に落ち」たことに、なんの屈辱もなんの挫折も感じていない。おどらくえ、江藤淳には、「自分の行きたい大学に行ったのだ」「私は、俗物ではない」という誇りがあったのではないか。そして日比谷高校の教員なら、それを理解してくれるはずだと思ったのではないか。「君、慶応は経済かね? なに文科?」という俗物丸出しの下卑た言葉を聞いた時、江藤淳は、ここは、自分の来るべき場所ではない、ここには学問も文学もない、受験産業の走狗としての教員たちしかいない 、と思ったのではないだろうか。江藤淳は純粋だった。学問や文学、あるいは思想の追究ために大学を目指していたのだ。