■(続々)藤田東湖と西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』のための草稿です。)
「思想を生きる」とか「生きられた思想」という言葉が 、私は、好きだ。言葉というより、私はそういう生き方を、自分の思想信条にしている。私が、水戸学や水戸学派に関心を持つのは、「尊皇攘夷論」と言われる水戸学の思想なるものが、まさしく「生きられた思想」であり「生きられた学問」だと思うからだ。水戸学の思想は、「思想のための思想」でも「学問のための学問」でも「理論のための理論」でもなく、「生きられた思想」であり、「生きられた学問」である。水戸藩は、幕末の動乱期の主役であり、明治維新の初期段階において、常に主導的役割を演じてきた。しかし、水戸藩の学問である水戸学は、その純粋性と徹底性、過激性の故に、明治維新の集大成期には、薩摩藩や長州藩に主導的役割を奪われただけでなく、政治勢力的には、ほぼ消滅したといっていい。しかし、水戸藩は、厳密に言うと 、その尊皇攘夷論という「思想を生きた」といっていい。水戸学派の水戸学という学問は「生きられた学問」だったが故に、政治勢力的には消滅せざるを得なかったが、私は 、勝ち残ったものだけの歴史が、「歴史」ではない 、と思う。