山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■薩摩藩と水戸藩と日下部伊三次( 『 藤田東湖と西郷南洲』 余録) 桜田門外の変で、井伊直弼暗殺に成功しながら、現場近くで彦根藩の武士に切られて負傷し、逃亡を断念、その場で自決した有村次左衛門は、前夜、日下部伊三次の娘=マツ( 松子)と婚姻の儀式を行っていた。日下部伊三次とは何者か。西郷南洲も、日下部伊三次を人間として高く評価していた。日下部伊三次は「水戸藩士」だったが、島津斉彬の懇願で、「薩摩藩士」となっている。実は、ここには、不思議な歴史的背景があった。日下部家は、元々、薩摩藩の武士であったが、薩





薩摩藩水戸藩と日下部伊三次( 『 藤田東湖西郷南洲』 余録)

桜田門外の変で、井伊直弼暗殺に成功しながら、現場近くで彦根藩の武士に切られて負傷し、逃亡を断念、その場で自決した有村次左衛門は、前夜、日下部伊三次の娘=マツ( 松子)と婚姻の儀式を行っていた。日下部伊三次とは何者か。日下部伊三次と有村次左衛門は、どういう関係にあったのか。有村次左衛門は、有村家の三男であり、日下部伊三次の長女と婚約することで、日下部家の家督を相続する予定だったものと思われる。しかし、有村次左衛門が、桜田門外の変で自刃・自決したことで、日下部伊三次の長女と再婚したのが、有村次左衛門の長兄・有村俊斎( 後に「海江田信義」)だった。有村俊斎は、弟の婚約者だったマツ( 松子)と再婚し、日下部家を相続する同時に、日下部の旧姓であった「海江田」を名乗ることになる。それが、明治維新の激動期を生き延び、明治新政府で、貴族院議員や枢密院顧問などの要職を勤めた海江田信義である。
ところで、西郷南洲も、日下部伊三次を人間として高く評価していた。日下部伊三次は「水戸藩士」だったが、島津斉彬の懇願で、「薩摩藩士」となっている。実は、ここには、不思議な歴史的背景があった。日下部家は、元々、薩摩藩の武士であったが、薩摩藩の「ある事件」に巻き込まれたらしく、薩摩藩から逃亡し、水戸の地に住み着いていた。その元薩摩藩士が、日下部伊三次の父、海江田連である。海江田連は、名前を「日下部」に変え、水戸藩の太田で、私塾をひらいて、青少年の教育に励んでいた。教育者としての海江田連は、人格、識見、ともに高い評価を得て、太田学館の幹事にまでなっていた。その息子が日下部伊三次である。日下部伊三次は 、父の後を継いで太田学館の幹事となるが、父と同様に、その人格識見を買われ、水戸藩士に取り立てられている。日下部伊三次を見た徳川斉昭は、その人格を認めると同時に、親交のある薩摩藩主・島津斉彬に推薦し、薩摩藩士として復帰出来るようにと取り計らった。島津斉彬もまた、日下部伊三次の力量に注目し、薩摩藩江戸屋敷詰めの薩摩藩士として、喜んで受けれたのだった。それからは、日下部伊三次は、薩摩藩水戸藩の連絡役となり、両藩を股にかけて、尊皇攘夷派の武士として重要な役割を演じることになる。「安政の大獄」事件のきっかけともなった水戸藩の「戊午の密勅」事件の主役の一人が日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩の鵜飼吉左衛門らとともに 、密勅を水戸藩江戸屋敷へ運ぶ。この「戊午の密勅」事件で、幕府と水戸藩は、激しく対立し、一触即発の危機的状況になる。その結果が、井伊直弼が発動した「安政の大獄」事件である。この安政の大獄で、多くの尊皇攘夷派の志士たちつおともに日下部伊三次も、尊皇攘夷派の志士として捕縛され、獄死した。