■(続)■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
「新潮45事件」とも言うべき「LGBT騒動」における新潮社の編集者たちや、新潮社と関係あるらしい作家、評論家たちの「LGBT騒動」に関する言動と思想を見ていると、文学精神の退廃と衰退、没落は、行くところまでいくほかはないだろうと思う。彼らの思想と行動は、社会的には間違ってはいないだろうが、文学的には、その意味も価値もほぼゼロというより、マイナスと呼ぶしかない、と私は思った。新潮社の編集者たちの言動を改めて見なおしていくと、何のために文芸出版社に入社したのかと、疑わざるをないものがほとんどだ。「文学と悪」という問題と言うより、まず、たとえば「文学と人間」という問題についてでも、一度でも、考えたことはないのだろうか。人間は「善」なる行為を行う存在であるべきかもしれない。が、同時に、「犯罪」や「殺人」「強姦」「不倫」も、行う存在だろう。文学を道徳教育の一環と考える人がいてもいいだろう。それも別に悪いことではない。しかし、それに満足しない人間がいてもおかしくない。そんなことは小学生でもわかっているだろう。私は、小学低学年残ろ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだ時、正確には「紙芝居」で、『蜘蛛の糸』を見た時、何か奇妙な胸騒ぎを覚えた。これはなんだろうと思った。「善なるもの」への懐疑と不安。後にドストエフスキーの『罪と罰 』を読んだ時、私は、人間という存在は、なんと恐ろしくも、魅力的なのだろうと思った。私は、すっかり「悪」というものの魅力の虜になっていた。
「新潮」編集長の「矢野優」さんが、次のような文章を編集後記に書いていた。私は、一読して 、絶望的な気分になった。ああ、この人は「いい人」だなあ、と。
《 「新潮45」二0一八年十月号特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈 』論文」について、少誌の寄稿者や読者から多数の批判が寄せられました。
同企画に掲載された「政治は『 生きづらさ』という主観を救えない」において筆者の文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比し、後者の「困難こそ極めて根深かろう」と述べました。これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます。
このような表現を掲載したのは「新潮45」ですが、問題は小誌にとっても他人事ではありません。だからこそ多くの小誌寄稿者は、部外者ではなく当事者として怒りや危機感の声をあげたのです。
文学者が自身の表現空間である「新潮」や新潮社を批判すること。それは自らにも批判の矢を向けることです。
小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。そして、差別的表現に傷つかれた方々に、お詫び申し上げます。
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想像力と差別は根底でつながっており、想像力が生み出す文芸には差別や反差別の芽が常に存在しています。
そして、すぐれた文芸作品は、人間の想像力を鍛え、差別される者の精神、差別してしまう者の精神を理解することにつながります。
「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います。
二0一八年九月二十八日
「新潮」編集長・矢野優
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まことに、立派な、それ故に人畜無害な、健康的な文章である。私は、そこを批判しているのではない。これが、文芸雑誌「編集後記」に書かれていること違和感を持つというだけである。つまり、健全なる小市民的文章だが、私の眼には、どう見ても、文学的・芸術的な文章には見えないということだ。
矢野編集長は、「文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」と力強く宣言しているが、私には、この文章は、「文学と差別の問題について、小誌は考えることを放棄・拒絶します。」としか読めない。無責任な政治家の場当たり的、口から出任せの言葉にしか見えない。実際、その後、この「文学と差別」の問題を取り上げた気配はない。
「LGBTには生産性がない」と言った杉田某女史や、それを擁護した文芸評論家・小川榮太郎の方が「逃げた」わけではない 。逆である。杉田某女史や小川榮太郎が議論や論争の継続を呼びかけたが、議論や論争から「逃げた」のは、矢野編集長や作家や評論家たちの方である。
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