江藤淳は、いわゆる《 60年安保 》を、どのように受け止め、どのように対応し、そして、どのように総括してきたのだろうか。江藤淳は、最初から《60年安保 》闘争に批判的だったわけではない。江藤淳もまた、闘争に参加していたのである。前にも述べたように、《 若い日本の会 》は、安保反対の運動を目指す組織だったのだ。しかも江藤淳は、その中心メンバーだった、メンバーの一人一人は 、それぞれ、独自の思想や思惑を持っていただろうが、少なくとも安保反対では一致していただろうと思われる。しかし、江藤淳は、かなり早い段階で、安保反対闘争に批判的になる。この頃、江藤淳が書いた文章に『戦後知識人の破産』という論文がある。《戦後知識人》とは、《60年安保 》闘争を主導して来た《丸山眞男》や《清水幾太郎》らのことである。江藤淳は、《60年安保 》闘争の熱もまださめやらぬ時点で、左翼リベラル派の象徴であった東大法学部教授の丸山眞男等を批判したのである。これは、明らかに早すぎる批判であった。江藤淳の丸山眞男批判を理解する者は皆無で 、逆に、江藤淳の《 転向 》と《 変節 》が 、厳しく糾弾される始末であった。しかし、江藤淳の丸山眞男批判に共感するものがいなかったわけではない。しかも、江藤淳に共感するものは、左翼過激派の中にいた。その一人が《吉本隆明》である。