江藤淳の《大江健三郎批判》を軽く見る人がいる。江藤淳は、大江健三郎の活躍に嫉妬しているだけだろう、とでも言うかのように。たとえば、小谷野敦の『江藤淳と大江健三郎』(ちくま文庫)などは、その典型で、全編が、そういう視点と色調で貫かれている。むろん、江藤淳の《大江健三郎批判》は、江藤淳個人にとってだけでなく、戦後思想史や近代思想史をを考える時、きわめて重要な問題をはらんでいる。小谷野敦等が理解出来ないだけである。小谷野敦等には、《江藤淳と吉本隆明》の共通性という問題意識はない。私は、江藤淳と吉本隆明の連続対談における《大江健三郎批判》だけでなく、吉本隆明個人の《大江健三郎批判》についても論じてきたが、それは、吉本隆明にとっても、《大江健三郎批判》という問題が、重要な意味を持っているからだ。私は、吉本隆明の初期評論活動の中心的なテーマのひとつが《大江健三郎批判》ではなかったのかと思っている。その証拠に、吉本隆明も、江藤淳に負けず劣らずに、大江健三郎にこだわり、《大江健三郎批判》を繰り返しているからだ。吉本隆明は、後期と言ってもいいだろうが、その時期に、当時、文芸ジャーナリズムで持て囃されていた若手の柄谷行人や浅田彰、そして蓮実重彦等をきびしく批判しているが、それも、吉本隆明の《大江健三郎批判》と無縁ではない。