正月元旦の日に、暇だったので、YouTube動画でも見ようかと思ってスマホを開いて、適当なYouTube動画を探していたら、珍しく古い映画らしいものが、目についたので、しばらく、若い頃の香川京子のうつるタイトル画面を見ていたら、ちょっと気になったので、出だしだけでも覗いてみようかなと思って見始めたら、ハマってしまって、最後まで見てしまっただけではなく、何回も繰り返して見る羽目になってしまった。溝口健二と言う映画監督の名前だけは以前から知っていたが、黒澤明や小津安二郎なら、それなりに知っているが、溝口健二の場合、代表作にどういう作品があるかなど、詳しいことはまったく知らなかった。私が、YouTube動画で見た溝口健二監督作品の映画は、『近松物語』というもので、近松門左衛門の伝記映画か 、近松門左衛門原作の《心中もの》《駆け落ち》《道行き》の類の物語の映画化だろうと思ったが、伝記ものではなく、やはり、後者の方だった。京都の大きな商家の奥様(香川京子)が、店で働く手代(長谷川一夫)と、ふとした手違いから、《不義密通》を疑われ、《駆け落ち》、逃亡する《道行き》の物語で、最後は逮捕され、市中引き回しの上、極刑に処される・・・。しかし、この単純素朴な不義密通物語が、全編、実にリアリティがあり、一瞬の隙もなく、濃密な時空間を形成している。文字どおり、《釘付け》になってしまった。久しぶりに、映画らしい映画を見たと感じたのだった。これまで、江戸時代の作家・劇作家である近松門左衛門とか井原西鶴には、あまり興味も関心もなかったので、近松門左衛門のどの作品の映画化なのかもわからない。主人公の名前が、《おはん》と《茂兵衛》で、当時としては、かなり知れ渡った有名な《不義密通》事件だったらしいが、私が知らない
だけかもしれない。溝口健二の映画『近松物語』は、近松門左衛門の作品と井原西鶴の作品を、溝口健二の友人の作家・川口松太郎が、独自の世界観で、脚色した小説『おはん茂兵衛』(のちに『近松物語』に改題)を映画化したものらしい。ところで、この『近松物語』を見るきっかけになったのは、以前、江藤淳の『近代以前』を読んで、林羅山と近松門左衛門との対比・比較の論じ方が面白かった記憶があったからだ。江戸幕府の公的秩序を象徴するのが、儒学者・林羅山だとすれば、元々は武士の身でありながら、反社会、反権力であり、下層一般庶民の娯楽でる人形浄瑠璃の座付き作家に身をやつして、下降志向の人物を演じたのが近松門左衛門だった、と江藤淳は論じている。そして、そこに《文学的なもの》の源泉、原点があると言っている。古くは『万葉集』の編者の大伴家持、『古今和歌集』の編者の紀貫之、『新古今和歌集』の編者の藤原定家…。いづれも、社会的構造転換の時代に翻弄され、没落していく政治的敗者たちであった。近松門左衛門の場合は、没落していくというより、自ら、没落の道を選択、志願した《下降志向》の人であった。私は、これまで、《人形浄瑠璃》や《歌舞伎》というようなものに、まったく興味がなかったが、溝口健二という映画監督に出会うことで、一瞬にして、近松門左衛門や人形浄瑠璃とかの虜になり、趣味嗜好が、《あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり》というように、変わってしまったのだった。さて、明日は、若い政治学者の某氏と、江藤淳をめぐって、対談することになっている。《こいつぁ春から縁起がいいわいのう》・・・。さて、この映画で、欠点があるとすれば、主人公茂兵衛を演じる長谷川一夫が、小太りの色男である点だろう。溝口健二は、スターを使うことが嫌いだったらしいが、皮肉なものである。