山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記(続)』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) yamazakikoutarou4669@gmail.com

『 スガと総務省スキャンダルとマスコミ支配』ー『 総理が怒ってますよ』と脅迫したのはアノ女だった。 山崎行太郎と内山卓也と森哲子のYoutube動画『 反=論壇時評』


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*存在論としての漱石論。 《 しかし、ぼくらは野暮な仕事からはじめなければならぬ》と、23歳の大学生である江藤淳は、処女作『夏目漱石 』で書いている。批評家・江藤淳の「独立宣言」と言ってもいい文章だ。「野暮な仕事」とは何か。

存在論としての漱石論。

《 しかし、ぼくらは野暮な仕事からはじめなければならぬ》と、23歳の大学生である江藤淳は、処女作『夏目漱石 』で書いている。批評家・江藤淳の「独立宣言」と言ってもいい文章だ。「野暮な仕事」とは何か。逆に、「野暮でない仕事」とは何か。意味不明な漠然とした言葉である。しかし、私には、一読して、この言葉が、何を意味するかが分かったような気がした。江藤淳は、「何か」に激しく反抗し、「何か」に激しく反逆している。「何か」とは何か。それは「文学」である。『 夏目漱石』の冒頭に、こう書いている。
《日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけには行かない。西欧の作家達は堅個な土台を持っている。ぼくらはその上に建っている建物のみを、あるいはその建物の陰にいる大工のみを論ずればよい。つまりこれは、これが果して文学だろうか?などという余計な取越苦労をしないでも済むといった程度の意味である。》(『夏目漱石 』)
江藤淳は、「西欧の作家達は 堅個な土台を持っている 」と言う。しかし、日本の文学にはその「 堅個な 土台」なるものがない、と。これは、どういうことだろうか。西欧の作家達には共通の土台があり、その土台の上で創作活動に励んでいるが、日本の作家達は、その土台を新しく構築することから、創作活動を始めなければならなかった、ということだろう。言い換えるなら 、江藤淳の「批評」は、「土台そのもの」を問う批評であった。では、ここで、江藤淳が言う「土台」とは何か。土台とは、我々が思考したり、創作したり、あるいは言論活動全般を行う時、自明の前提とする「パラダイム」(トーマス・クーン)、あるいは「エピステーメ」(ミチェル・フーコー)のようなものだろう。江藤淳は、それを、分かりやすく「土台」と呼ぶのだ。
そして、江藤淳は、日本の文学の「土台」にこだわるのだ。たとえば日本の作家達について、あるいは日本の文学について言う。
《 文学を学ぼうとする向きは、欧米の文学を学べばいいので、日本の作家達を 相手にしている時には事情はそれほど単純ではない。彼らを問題にしようとすれば、先ず、彼らの作品の成立っている土台から問題にしてかからなければならないので、建物の見かけがよくても地盤が埋立の急造分譲地並にゆるんでいれば、値切り倒すのが周旋屋の習性である。》
江藤淳が「ぼくらは 、野暮な仕事からはじめなければならなぬ」というのは、そういうことである。つまり、「野暮な仕事から」とは、「土台」を点検・吟味することから・・・ということである。
文壇や文学研究者の世界には、文学は「作品がすべてだ」という根強い偏見がある。作者や作者の「人生=生活」、あるいは時代背景・・・を問題にするのは、邪道であるというような偏見である。最近は、それを「テキスト論」とか「テキスト論的批評」とか呼ぶらしいが、少なくとも江藤淳は 、ここで、そういう批評を批判、排除している。江藤淳という批評家が、しばしば、警戒され、恐れられ ると同時に、 批判され 、冷笑され、無視される原因が 、ここにある。

水戸光圀と水戸学派(2) 水戸光圀は、「水戸黄門」として知られているが、「水戸黄門」のイメージだけで、「水戸光圀のすべて」が語り尽くせるわけではい。水戸光圀は、学問好きであり、とりわけ「歴史」というものに、一風、変わった学問的関心を持ち続けていたようである。徳川幕府の誕生とともに、戦乱の時代が終わり、平和の時代になると、世間の関心も、次第に内面的方向に向かい始め、学問や思想 、文化方面への関心が強くなる。とりわけ 、水戸光圀の時代には、歴史への関心が、高まっていた。そうした時代背景の元に、水戸光圀の「歴

水戸光圀と水戸学派(2)

水戸光圀は、「水戸黄門」として知られているが、「水戸黄門」のイメージだけで、「水戸光圀のすべて」が語り尽くせるわけではい。水戸光圀は、学問好きであり、とりわけ「歴史」というものに、一風、変わった学問的関心を持ち続けていたようである。徳川幕府の誕生とともに、戦乱の時代が終わり、平和の時代になると、世間の関心も、次第に内面的方向に向かい始め、学問や思想 、文化方面への関心が強くなる。とりわけ 、水戸光圀の時代には、歴史への関心が、高まっていた。そうした時代背景の元に、水戸光圀の「歴史」への関心も深くなっていったが、水戸光圀の「歴史」は、その種の常識的、流行的なものとは少し異なっていた。水戸光圀の「歴史」は、単なる「歴史的」なものを超えて、「歴史哲学的」なものだった。当時 、幕府が、林羅山、林鵞峯(春斎)父子が中心になって編纂した歴史書として『 本朝通鑑』があったが、水戸光圀は、その内容に反対だった。それが、水戸藩独自で、歴史書を編纂するという動機ともなったようだ。水戸光圀は、幕府公認のイデオロギーを、鵜呑みにして、それを繰り返すだけの 、幕府内部の立身出世的な階段を登っていこうとする俗物エリート的発想とは異なる発想の持ち主だった。

水戸光圀と水戸学派。 水戸学、ないしは水戸学派は、水戸藩二代目藩主・水戸光圀に始まる。水戸光圀は、青年時代、司馬遷の『史記 』を読んで 、思想的覚醒というか、思想的転換を経験し、「歴史」というものに目覚め、日本史の探求を試みるようになった。後に、二代目藩主になる頃に、 いよいよ本格的に『 大日本史』という歴史書の編纂作業を開始する。この『大日本史 』の編纂作業を通じて、水戸学、ないしは水戸学派が形成されていくことになる。


水戸光圀と水戸学派。
水戸学、ないしは水戸学派は、水戸藩二代目藩主・水戸光圀に始まる。水戸光圀は、青年時代、司馬遷の『史記 』を読んで 、思想的覚醒というか、思想的転換を経験し、「歴史」というものに目覚め、日本史の探求を試みるようになった。後に、二代目藩主になる頃に、 いよいよ本格的に『 大日本史』という歴史書の編纂作業を開始する。この『大日本史 』の編纂作業を通じて、水戸学、ないしは水戸学派が形成されていくことになる。

2月20日(土曜日) 、午後3時〜。新宿駅小田急前で、『竹中平蔵糾弾デモ ・街頭演説会』が行われるそうです。全員集合。日本国民よ、立ち上がれ。竹中平蔵に「天誅」を。


竹中平蔵は「経済音痴」。竹中平蔵式改革で、成功した試しは

竹中平蔵パソナが、ブクブクと、醜く、「焼け太り」するだけ。国民は 餓死寸前。青年たちは次々と自殺。

誰が、こんな国にしたのか。

またまた第三次補正予算に組み込まれた「中小企業改革・・・」で、巨大利権がパソナに決定。中小企業をつぶして、パソナ竹中平蔵焼け太り
吸血鬼・竹中平蔵。ドラキュラも真っ青。

スガ政権と竹中平蔵は一心同体のようです。国民の生き血をすするスガ政権、売国企業パソナ守銭奴竹中平蔵を、国民の手でつぶしましょうう。
その前に、スガを・・・。

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明日、2月20日(土曜日) 、午後3時〜。新宿駅西口、小田急前で、甲斐正康氏・・・主催の『竹中平蔵糾弾デモ ・街頭演説会』が行われるそうです。全員集合。日本国民よ、立ち上がれ。竹中平蔵に「天誅」を。
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『月刊日本』に連載を開始した『 江藤淳とその時代』について。江藤淳の思想的本質は『漱石論 』である。江藤淳を論じる人で、江藤淳が慶應義塾大学の学生時代に書いた処女作『漱石論 』を論じる人が少ないのは何故か。江藤淳の存在論(暗い漱石)が分からないからではないのか。

月刊日本』に連載を開始した『 江藤淳とその時代』について。

江藤淳の思想的本質は『漱石論 』である。江藤淳を論じる人で、江藤淳慶應義塾大学の学生時代に書いた処女作『漱石論 』を論じる人が少ないのは何故か。江藤淳の「存在論」(暗い漱石)が分からないからではないのか。江藤淳の「憲法論」や「占領史研究」・・・等の根底には江藤淳存在論(漱石論)がある。江藤淳存在論が分からなければ「憲法論」や「占領史研究」・・・等も分からない。


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藤田東湖と水戸学派(2) 水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。

藤田東湖と水戸学派(2)

水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。
『回天詩史』における藤田幽谷・東湖父子の「イギリス船員皆殺し」の会話の場面は、後期水戸学を象徴する場面のようにみえる。面白いので、ちょっと詳しくみてみよう。『 回天詩史』の冒頭に、次のように記している。

《 余は融通のきかぬ愚か者で、幕府に罪に問われ、家に閉じこもって謹慎を守っていたが、そのおり静かに過去を振りかえってみるに、死を決意して、しかも死ななかったことがこれまでにすべて三度あった。》

藤田東湖の『 回天詩史』はこういう文章で始まっているが、ここで、「死を決意して・・・」という言葉に注目しよう。藤田東湖の思想の本質が、さらには水戸学派の思想の本質が現れているからだ。そこで、その「死を決意」した最初が、一九歳の時のイギリス船員の「皆殺し」を決意する場面だったというわけである。父・藤田幽谷が息子に与えた言葉が 、面白い。
《 最近、毎年のように外夷が近海をうかがい、ときには大砲をとどろかせてわが人民をふるえあがらせており、その傲慢無礼はたとえようもない。しかるに世間の者は引っ込み思案で、事なかれ主義を好んでおられるから 、ひょっとしたら放還方針をとり、一時のがれの平穏を保とうとするのじゃないかと、わしはそれを恐れる。そんな結果になろうものなら、この堂々たる神州に具眼の士は一人もいないことになる。わしはそれがはずかしくてならん。おまえは急いで大津村に行け。こっそり情勢を見て、もし放還方針が決まったことがはっきりしたら、まっしぐらに異人の小屋にとびこみ、腕をふるって奴らを皆殺しにせい。そうしてのち、悪びれずに 役人に自首し、裁きを受けるがよい。これは一時的な方便というももだが、少しは日本国の元気を発揚するぐらいのことは あろう。わしには不幸にも、娘が多く、男の子はおまえしかいない。そのおまえが死ねばわし家系は絶える。そのときは、わしにもおまえにも天命がつきるわけだが、おまえはそれを気にしてはならんぞ》(中央公論『世界の名著=藤田東湖 』)
この父・藤田幽谷の言葉を聞き終えた藤田東湖は、「かしこまりました」と答えた。すると、父は、泣きながら 、「それでこそわしの児じゃ」と言う。そこで、さっそく、旅の準備に取り掛かった。その直後、来客があり 、酒宴となったために、親子の「別れの盃」ということになったが、その酒宴の最中に、大津村から急報が届き、イギリス船は、燃料と水えお与えて 帰したということで、一件落着ということになった。
異国船打払令」が 、幕府から出るのは翌年である。私は、この一件から、水戸学、ないしは水戸学派というものについて、私なりの幻想を持つ。私は、思想の本質は、結果ではなく、その思想の形成過程に、あるいはその思想の誕生過程(起源)にあると思っている。たとえば、私は、生き残った者や成功した者達の証言や書き残したものを、あまり重視しない。たとえば、西郷南洲についての証言類も、福沢諭吉勝海舟、あるいは大隈重信・・・等の「証言」を含めて信用しない。水戸学についても同じだ。水戸学は 、体制擁護の御用学でもなく、現状維持や立身出世を目指す「学問のための学問」でもなかった。明治維新の成果と果実を、分け与えられることがなかったとしても、当然であろう。水戸学の精神には、栄耀栄華や地位、名誉・・・などを求める世俗的野心はなかった。西郷南洲藤田東湖に共通するものがあったとすれば、この点だろう。たとえば、私は、藤田東湖亡き後、全滅した水戸「天狗党」の悲劇を、西郷南洲の「西南戦争」の悲劇と同列に考える。
あまりにも有名になりすぎたために 、世俗にまみれすぎ、その真意が忘れられ、形骸化した言葉に、私は嫌いな言葉だが、『 西郷南洲翁遺訓』に、こんな言葉がある。

《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。》(『 西郷南洲翁遺訓』)
この言葉が語られる度に 、私は 、人間というものの宿命について自己嫌悪に陥るが、それはともかくとして、この言葉の出どころは、藤田東湖あたりにあったのではないか 、と私は勝手に想像する。