⬛️吉本隆明とその時代。
私は小市民左翼が嫌いだった。平和とか民主主義とかいう左翼 、たとえば《 ベ平連》のような左翼が大嫌いだった。人畜無害な左翼が嫌いだった。いずれにしろ、そういう時、吉本隆明を読んだ。吉本隆明は 、小市民的左翼ではなかった。私が、新宿紀伊国屋で買った吉本隆明の『擬制の終焉』 だか『自立の思想的拠点』だかには 、三島由紀夫の推薦文がついていた。三島由紀夫は 、吉本隆明のラディカリズム(攻撃的な批評精神)を高く評価する文章を書いていた。さすがだ、と思った。吉本隆明の凄さと偉大さは、右翼過激派にしか分からないのではないか、と思ったものだ。私が、最初に読んだ吉本隆明の文章は、『戦後思想の荒廃』とかいう文章だった。確か、筑摩書房の綜合雑誌『展望』の最終号で読んだように記憶している。そこには大江健三郎や姫岡玲治などが登場していた。私は、姫岡玲治が青木昌彦の学生運動時代のペンネームだということも知らなかった。いずれにしろ、吉本隆明の過激な批判と批評に、私は引き込まれていった。左翼も右翼も関係なかった。当時の私は、ただ過激なものだけが好きだった。それから、吉本隆明にはまりこんでいった。吉本隆明は、小林秀雄や江藤淳と同様に過激な思考を展開する過激な思想家であり、過激な文学者だった。吉本隆明は普通の左翼ではなかった。小林秀雄や江藤淳のことも高く評価していた。吉本隆明の刊行する『試行』で『情況への発言』を夢中になって読んでいた。『吉本隆明詩集』や『初期ノート』を買い揃え、次に刊行が開始されたばかりの『吉本隆明全著作集』を、次々と買っていった。『 高村光太郎』や『 丸山眞男論』『 転向論』・・・などを読むことによって、私は、大きな影響を受けたが、それでも私は、小林秀雄や江藤淳の方が、思想的にも文学的にも《 上だ 》と思った。というようなことを書くと、必ず、無知無能な《 元左翼》 が、出てきて、昔の左翼の党派や左翼内部の人間関係の講釈をはじめる。私は、 今頃になって、老後を楽しそうに暮らしているらしい《 元左翼》、今は小市民社会に溶け込んでいる《 年金左翼 》が嫌いだ。私は、逃亡に逃亡を続けて野垂れ死にした永遠の過激派とも評すべき《 桐島聡》を尊敬し、畏怖する。《 桐島聡》を嘲笑している元左翼の俗物が、私は、嫌いだ。過激な暴力闘争の挙句、自滅していった左翼過激派の行動を反省したり自己批判して、市民左翼へ転向していった《元左翼》が、私は嫌いだった。転向した《 元左翼 》、物知りや雑学の《元左翼》は見たくもないし 、 話したくもないと思う。要するに、私の《吉本隆明体験》は、私だけのものだ。お前たちの吉本隆明体験とは、根本的に違うのだ。というわけで、馬鹿まるだしの《 元左翼》の手によるものらしいコメントは削除し 、ブロックしました。俺は、お前ら年金左翼とは思想的次元が違うのだ。