2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(3)。 ヘーゲルは『歴史哲学講義 』の冒頭で、事実の記述だけでは、歴史ではない、歴史は、哲学的歴史において初めて歴史になると言っている。このヘーゲル的歴史には、賛否両論があるだろうが、私は、重…
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(2)。 私は、呉座勇一をめぐる「呉座勇一●八幡和郎論争」や「呉座勇一●井沢元彦論争」をネット上で傍観しながら、「歴史問題」だけではなく、現在の日本が直面している多くの問題の根っこが、ここにあるの…
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(1)。知らない人は不思議に思うかもしれないが、呉座勇一に関しては、私は、野次馬的興味もないわけではないが、かなり真剣に、拘っている。私は、最近、「歴史」という問題に、関心を持っている。私は、…
呉座勇一の「ジェンダー事件」について、「Youtube動画」で話してみた。それって、言論統制=思想統制=言論弾圧じゃないのか。〜正論、花盛りで国滅ぶ〜。⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎ https://youtu.be/ncb50GEBuNg https://youtu.be/ncb50GEBuNg●資料⑴ 「朝日新聞デジタ…
呉座勇一の「ジェンダー事件」について、「Youtube動画」で話してみた。⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎ https://youtu.be/ncb50GEBuNg https://youtu.be/ncb50GEBuNg
国際日文研の「#呉座勇一」について、私の知っていることを話してみよう。 「#国際日文研」とは、バブル期のころ、古代史研究で有名な#梅原猛等が主導して、京都に設立された研究機関「国際日本文化研究センター」である。バブル期の遺産である。そこで「助…
藤田東湖と西郷南洲(3-2) 西郷南洲と藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台か…
国際日文研の呉座要一(助教)が取り返しのつかない不始末をしでかしたらしい・・・。 「京都日文研ー助教」の呉座要一は、前から分かっていたが 、単なる「インチキ野郎」 「妄想野郎」だろう。呉座要一は、勤務先の「京都日文研」を傘にきて、民間歴史研究者…
藤田東湖と西郷南洲(3) 内村鑑三の『 代表的日本人』は、西郷南洲(西郷隆盛)の話から始まっている。それは、内村鑑三が、西郷南洲をいかに高く評価していたかを示している。その『 代表的日本人』の中の西郷南洲の話の中に、藤田東湖が登場する。藤田東湖と…
存在論としての漱石論(13) (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。存在論としての漱石論(13)漱石神話の中心にあるのは「則天去私」という神話である。江藤淳…
(註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。 存在論としての漱石論(12) 江藤淳の漱石論で、眼を引くものの一つは、漱石と、単なる崇拝者でしかない、その弟子た…
存在論としての漱石論(11) (本稿は、『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。完成稿は『月刊日本』でお読みください。)前にも書いたが、私は、小さ頃は、「文学」も「読書」も「図書館」も嫌いであった。嫌いというより、激しく軽蔑し、…
存在論としての漱石論(10) 江藤淳の評判も評価も悪い。所謂、「蛇蝎の如く嫌う」人も少なくない。江藤淳を高く評価する人に会ったことは、ほとんどない。何故だろうか。私は、むしろ、そこに、江藤淳の批評的才能の「凄さ」を感じる。江藤淳を高く評価する人…
言論誌『維新と興亜 』の編集長=坪内隆彦氏のFacebookからの孫引きですが、福島伸享=前衆議院議員(茨城一区)が、 Facebookで、『 維新と興亜』と、小生の『藤田東湖と西郷南洲(2) 』を紹介してくれたようです。ありがとうございます。ちなみに、福島伸享氏は…
存在論としての漱石論(9) 江藤淳は、文学や文学者を厳しく批判する。しかし、それは、文学を否定することではない。文学を肯定し、文学の精神と力を擁護するためだ。この分析と論理の「弁証法」が分からなければ、江藤淳の批評の意味も、その過激な批評的思…
存在論としての漱石論(8) 私が、江藤淳を高く評価する根拠は、その「批評的思考力」の過激さである。何者をも恐れずに、誰彼、構わずに論争を仕掛けていき、完膚なきまでに論破していくその「攻撃力」と「破壊力」である。江藤淳が、あと先や、周辺の顔色を…
存在論としての漱石論(7) 正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。 《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気…
存在論としての漱石論(6) (本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代3 』の下書きです。)江藤淳は、吉田健一的な、あるいは西脇順三郎的な、高尚で、高踏的な文学や文学研究を、それが限りなくホンモノに近いにも関わらず、まさにホンモノに近いが故に…
■昨日(3.7、日曜日)、【山崎行太郎】【内山卓也】【森哲子】の「ZOOM」によるYoutube動画『反=論壇時評』を収録、配信しました。テーマは、『 総務省スキャンダルと竹中平蔵とスガ総理』・・・。 ■総務省は、小泉政権における「郵政民営化」以来、「竹中一派…
「存在論としての漱石論」(5) 夏目漱石は、「維新の志士」たちのように、命懸けで 文学をやりたいと言っている。それは「英文学としての文学」ではない。漱石は、「英文学者」になろうとしてなれなかった人である。何故、なれなかったのか。漱石に、学者とし…
『月刊日本』に連載開始した『 江藤淳とその時代 (2)』の二発目の原稿を書き終えました。サブタイトルは、「存在論としての漱石論」です。江藤淳は、文芸評論家であるにもかかわら ず、激しい「文学」及び「文学的なるもの」への反感、批判、拒否感情をもっ…
私も『西郷南洲と藤田東湖 』を連載している言論誌『維新と興亜』第5号が発売中です。キンドル版(500円)も・・・。定期購読も募集中です。 https://ishintokoua.com/〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 https://ishintokoua.com/おはようございます。 『維…
(本稿は、例によって、『 月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 』の下書きです。) 存在論としての漱石論(3) 江藤淳が標的にしているのは、主に吉田健一であるが、実は、文面には出てこないが、当時、慶應義塾大学英文科教授で、詩人だった西脇順三郎がいる…
■存在論としての漱石論(2)。 江藤淳の「批評」が、本質的、原理的、存在論的・・・だということは、どういうことだろうか。江藤淳は、漱石について、面白いことを言っている。文壇や文学研究者たちの世界で、一種の「常識」となっている「作品至上主義」とも…
『維新と興亜 』という雑誌があります。友人の坪内隆彦氏が編集長です。私も、『藤田東湖と西郷南洲 』を前号より連載しています。第五号が発売中です。内容は以下の通りです。Amazonやネットより、お求めください。定期購読者も募集中です。よろしくお願い…
『 スガと総務省スキャンダルとマスコミ支配』ー『 総理が怒ってますよ』と脅迫したのはアノ女だった。 山崎行太郎と内山卓也と森哲子のYoutube動画『 反=論壇時評』https://t.co/v5VEnka6FC https://t.co/v5VEnka6FC (「チャンネル登録」もよろしくお願いし…