■薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑷。
私が石原莞爾に興味を持つにいたったのは、東京裁判臨時法廷におけるその奇抜な言動に接したからではない。また、満洲事変における軍人としての天才的な軍事戦略と大活躍のせいでもない。何回も繰り返すが、《 日蓮 》や《日蓮宗 》について、『世界最終戦争論』の中で、戦争論や戦略論を論じながら、同時に、大真面目に論じているのに感動したからである。石原莞爾は、自分の信じる宗教は《 日蓮宗 》である、自分が死んだら葬式は日蓮宗でやってくれ、などと、呑気なことを言っているのではない。『世界最終戦争論』という論文の中で、むしろその思想的根拠として《日蓮 》や《 日蓮宗》の思想や論理を持ち出しているのだ。私は、石原莞爾の『世界最終戦争論』の一節を読んではじめて、《日蓮 》や《日蓮宗 》に興味を持った。普通なら、『世界最終戦争論』というタイトルに興味をもって読みはじめた人でも、《 日蓮 》や《日蓮宗 》の話が出てくると、違和感を感じ、読み進めるのをやめるかもしれない。あるいは、そこを、飛ばして、次の章を読み続けるかもしれない。しかしそれを許さないのが石原莞爾の『世界最終戦争論』である。何故なら、『世界最終戦争論』の基礎的論理として、《 日蓮 》や《 日蓮宗》が定位されているからだ。言い換えると、『世界最終戦争論』の思想と論理を理解するためには、《 日蓮 》や《日蓮宗》の理解が不可欠だからだ。たとえば、《 最終戦争》という言葉からは、キリスト教的な《 終末論 》を連想させるが、石原莞爾の場合は、キリスト教的終末論ではなく、日蓮宗的な《 終末論》、つまり日蓮宗的な《 末世思想》である。
《日蓮聖人 が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言しておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現われるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきものだと信ずるのであります。 》(石原莞爾『世界最終戦争論』)
さらに、これに続けて、国柱会の田中智学の名前を出して、次のように言っている。
《・・・私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人 以後の第一人者である田中智学先生が、大正七年のある講演で 「 一天四海皆帰妙法は四十八年間に成就し得るとという算盤を弾いている」と述べていることです。大正八年から四十八年くらいで世界が統一されると言っております。》
だから、私は、保阪正康から福田和也まで、その石原莞爾論や石原莞爾伝に、不満と違和感を感じるのである。日蓮宗系の《国柱会》の狂信的な信者であった石原莞爾が捉えられていないからだ。私は、その熱狂的な《 狂信性 》にこそ 、石原莞爾の存在本質があるのではないか、と考えるからだ。