■江藤淳の『 一族再会』を読む(2)。~古賀喜三郎と江頭安太郎と 、もう一人の祖父・宮治民三郎。
古賀喜三郎とは祖母の《父》であり、江頭安太郎とは江藤淳の父の《父》であり、祖母の《夫》である。 もう一人の祖父とは、江藤淳の母の《父》である。母方の祖父ということになる。 共に海軍軍人であった。江藤淳は、江藤家(江頭家)という海軍軍人一族の没落と《日本の敗戦》、つまり《 日本の没落 》を、『 一族再会』で、重ねて、重層的に描いている。つまり、江藤家(江頭家)の没落が日本の敗戦を象徴しているかのように描いている。これを、オーバーな表現と思う人もいるかもしれない。そう思う人がいてもおかしくない。しかし、すなくとも江藤淳は、《日本の敗戦》と《日本の没落 》を、抽象的な一般論としてではなく、身内の生々しい現実問題として語ろうとしている。この問題は重要である。たとえば、江藤淳は、敗戦=終戦の日について、つまり八月十五日のことを、祖母の言葉を通して描いている。
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福沢諭吉に、《 立国は私なり、公にあらざるなり 》という言葉がある。これは、福沢諭吉の『 痩せ我慢の説』の冒頭にある文章だが、その真意は、なかなか、複雑で、意味深である。その解釈はともかくとして、これは、江藤淳的に言い直せば、《 私を語らずして、天下国家を語るなかれ。》ということではなかろうか。たとえば、丸山眞男やその一派は、日本の敗戦を分析して、戦前を軍国主義や天皇制ファシズムの支配した反近代的で、非合理主義で、野蛮な時代として描き出し、徹底的に批判している。しかし、彼等は、《私 》や私の《父》や《母 》、あるいは《 祖父 》や《 祖母 》、あるいはまた《 曽祖父 》などについて、語っていない。彼等は、戦時中、何をしていたのかという問題について語っていない。別に語るべきだと言いたいわけではないが、彼等の《 正しい政治学や政治史研究》が、どことなく空々しく、空虚で、信用出来ないと思うのは、私だけかもしれないが、私の紛れもない実感である。政治学や政治史研究は、《科学としての学問 》なのだから、個人的な心情や家族などの私事を持ち込むべきではない、という意見もあるかもしれないが、少なくとも、江藤淳は、そうではなかった。《 立国は私なり、公にあらざるなり。 》や《 私を語らずして、天下国家を語るなかれ。》が、江藤淳の思想的 、学問的な大原則だったように見える。さて、江藤淳の『 一族再会』の中で、私にとって最も印象に残る記録は、母親代わりとして江藤淳を育ててくれた《 祖母 》であるが、その次に印象に残っているのは、母方の祖父・宮治民三郎のことである。
《 祖父江頭安太郎が海軍少佐に任じられたのは、明治三十年(一八九七)十二月一日英国滞在中のことである。彼は十二月十日付、当時ニューキャッスルで艤装中の高砂水雷長に補された 。/それからさらに八日後、江田島の海軍兵学校では、第二十六期生徒の卒業式が挙行され、御沙汰によって有栖川宮威仁親王と、安太郎と同期の侍従武官有馬良橘が差遣された。新しく少尉候補生に任官した三十二名のなかに、恩賜の双眼鏡にはあずかれなかったが、どちらかといえば成績のよい生徒がいた 。彼の席次は七番で、語学を得意とし、名を宮治民三郎という。愛知県海東郡蜂須賀村の出身で、族籍は平民である 。/民三郎は母方の祖父である。》
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■江藤淳の『 一族再会』を読む(3)~母方の祖父・宮治民三郎の故郷。
母の死後、疎遠になっていた母方の祖父・宮治民三郎の故郷は、愛知県の片田舎、海東郡蜂須賀村にあった。江藤淳は、『 一族再会』を『 季刊藝術』に連載中だった、ある日 、わずかな資料を手に、そこを目指して訪ね歩いていった 。もちろん、宮治民三郎の《故郷 》も《生家》も、偶然に偶然が重なり、見つかることになるのだが、その前に、江藤淳と宮治民三郎とのわずかな交流について、記しておきたい。海軍軍人だった老人が、日本軍壊滅後、つまり戦後を、どのように生きたかが、分かるからだ。もちろん、宮治民三郎の戦後は、その一端にすぎない。しかしその一端に一片の真実は宿っている。母の死後《疎遠 》になっていたと言ったが、全く交流がなかったわけではなかった。母の葬式の時、祖母の葬式の時、この二回、江藤淳は、宮治民三郎と会って、言葉を交わしている。しかし、父親が再婚していたこともあって、それほど親しく出来たわけではなかった。江藤淳が、思いを決して、宮治民三郎を家を訪ねて行ったのは、慶應大学の学生になり、山川方夫の推挙で『三田文学』に『夏目漱石』論を連載し 、その『夏目漱石』論が好評を得て、一冊の本になった直後だった 。江藤淳は、『夏目漱石』論という一冊の本を手土産に、誇らしい気持ちで、母方の祖父・宮治民三郎を訪ねて行ったのである。私は、それまで、江藤淳が、母方の祖父・宮治民三郎だけではなく、母親の弟妹たちに会いたくなかったはずはないと思う。江藤淳は、《痩せ我慢》していたのである。おそらく、お互いに、落ちぶれた、惨めな姿を見せたくなかったのだ。江藤淳は、『夏目漱石』論という一冊の本を出版し。文壇の一郭に、新人文芸評論家としての確実な一歩を歩にはじめた時、《 よし、これなら大丈夫だ 》
と確信し、宮治民三郎の前に進み出たのではないだろうか。言うまでもなく、この《 痩せ我慢 》の中に、江藤淳の《父性の文学 》、いわゆる《 治者の文学》の萌芽はある。