山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■『江藤淳とその時代』ー江藤淳と大江健三郎の《論争》について《3》。 私が、吉本隆明の著作で、最初に読んだ作品名は 『 戦後世代の政治思想』ではなく、『 戦後思想の荒廃』だった。雑誌『 展望』に掲載されていたのも、『 戦後思想の荒廃』の方だった。私は、誰かに教えられたから読んだのではなく、 雑誌『 展望』を買ったから、偶然、読むことになっただけである。私の吉本隆明体験、つまり吉本隆明読書体験は、まったく個人的で、唯我独尊的、恣意的なものである。私は、当時の若者たちが、つまり現在の後期高齢者たちが、吉本

■『江藤淳とその時代』ー江藤淳大江健三郎の《論争》について《3》。

私が、吉本隆明の著作で、最初に読んだ作品名は 『 戦後世代の政治思想』ではなく、『 戦後思想の荒廃』だった。雑誌『 展望』に掲載されていたのも、『 戦後思想の荒廃』の方だった。私は、誰かに教えられたから読んだのではなく、 雑誌『 展望』を買ったから、偶然、読むことになっただけである。私の吉本隆明体験、つまり吉本隆明読書体験は、まったく個人的で、唯我独尊的、恣意的なものである。私は、当時の若者たちが、つまり現在の後期高齢者たちが、吉本隆明をどういう風に読んでいたかということをまったく知らない。だから、吉本隆明について、嬉々として、無邪気に書いたり話したりするのに接すると、ただ意味もなく、無性に怒りがこみあげてくる。そうでは無いだろう、と。《もっと深く絶望せよ》、と。お前たちの吉本論には、この《絶望》の深さの認識が足りないよ、と。さて、『 戦後世代の政治思想』の方だが、調べてみると、発表されたrのが昭和35年で、西暦で言うと、1960年だ。私が 、まだ中学1年か2年の頃だ。いわゆる《60年安保闘争 》というものがあった頃だ。その頃、私は、読書という習慣もなく、またスポーツや勉学に熱中するわけでもなく、南九州の山奥で、ただ一人、なんの目標もなく、為す術なく悶々と暮らしていた。だが世間知らずの私の耳にも、東京というところで、大学生たちが、大騒ぎして、警察に追われて大学構内に立て篭もっているらしい、というニュースが流れて来ていたような気がするが、何が起きているのか、正確には分からなかった。ほとんど興味もなかった。ただ、警察が、大学の自治権とやらが理由で、《大学構内に立ち入れない》という話だけが、不思議な話だなー、という印象とともに、記憶に残っているだけだ。つまり、『 戦後世代の政治思想』は、その頃、『 中央公論』という雑誌に発表されているから、私が、読むわけがない。繰り返すが、私が、高校を卒業して、上京し、そこで読んだのが、吉本隆明の『 戦後思想の荒廃』という論文だった。この論文の中で、吉本隆明は、大江健三郎の『 ヒロシマ・ノート』と開高健の『 ベトナム戦記』を厳しく批判していた。ベトナム戦争が真っ盛りの頃だった。ベ平連が結成されたのもこの頃だったかもしれない。私は、大江健三郎の《小説》の影響から、左翼市民運動や平和主義的市民運動の欺瞞性に批判的だったから、皮肉なことに、当然、大江健三郎の『 ヒロシマ・ノート』や開高健の『 ベトナム戦記』の健全な小市民的な、市民主義や平和主義も嫌いだった。吉本隆明の《大江健三郎批判》も、すぐに納得できた。吉本隆明の《大江健三郎批判》は、江藤淳の《大江健三郎批判》に通じるものがあった。私の《大江健三郎熱》も、しだいにさめはじめていた。
私は、『 吉本隆明全著作集』と『 江藤淳著作集』を、毎月、買い揃えて、熟読していた。吉本隆明が主宰する『 試行』という雑誌も、毎号買って、読んでいた。当時は、学生運動が激しく、ヘルメットとゲバ棒武装した学生たちが跋扈していた時代だったが、私は、読書に夢中で、デモなどには一切興味がなかった。自分の部屋に閉じこもって、本ばかり読んでいた。哲学の原書購読(ベルグソン)の時間だけは、前の晩に徹夜して下調べをしたうえで、授業に出席するようにしていたから、教授にはすっかり気に入られていた。あの頃は、内面的には、かなり充実していたと思う。