■江藤淳の『 一族再会』を読む(3)~母方の祖父・宮治民三郎の故郷。
母の死後、疎遠になっていた母方の祖父・宮治民三郎の故郷は、愛知県の片田舎、海東郡蜂須賀村にあった。江藤淳は、『 一族再会』を『 季刊藝術』に連載中だった、ある日 、わずかな資料を手に、そこを目指して訪ね歩いていった 。もちろん、宮治民三郎の《故郷 》も《生家》も、偶然に偶然が重なり、見つかることになるのだが、その前に、江藤淳と宮治民三郎とのわずかな交流について、記しておきたい。海軍軍人だった老人が、日本軍壊滅後、つまり戦後を、どのように生きたかが、分かるからだ。もちろん、宮治民三郎の戦後は、その一端にすぎない。しかしその一端に一片の真実は宿っている。母の死後《疎遠 》になっていたと言ったが、全く交流がなかったわけではなかった。母の葬式の時、祖母の葬式の時、この二回、江藤淳は、宮治民三郎と会って、言葉を交わしている。しかし、父親が再婚していたこともあって、それほど親しく出来たわけではなかった。江藤淳が、思いを決して、宮治民三郎を家を訪ねて行ったのは、慶應大学の学生になり、山川方夫の推挙で『三田文学』に『夏目漱石』論を連載し 、その『夏目漱石』論が好評を得て、一冊の本になった直後だった 。江藤淳は、『夏目漱石』論という一冊の本を手土産に、誇らしい気持ちで、母方の祖父・宮治民三郎を訪ねて行ったのである。私は、それまで、江藤淳が、母方の祖父・宮治民三郎だけではなく、母親の弟妹たちに会いたくなかったはずはないと思う。江藤淳は、《痩せ我慢》していたのである。おそらく、お互いに、落ちぶれた、惨めな姿を見せたくなかったのだ。江藤淳は、『夏目漱石』論という一冊の本を出版し。文壇の一郭に、新人文芸評論家としての確実な一歩を歩にはじめた時、《 よし、これなら大丈夫だ 》
と確信し、宮治民三郎の前に進み出たのではないだろうか。言うまでもなく、この《 痩せ我慢 》の中に、江藤淳の《父性の文学 》、いわゆる《 治者の文学》の萌芽はある。