■我は知る、テロリストの哀しき心を・・・。
テロリストに拍手喝采するのは若者だけではない。テロ容認の背後には、物言わぬ一般民衆、一般大衆の一人ひとりである《お爺さん》 、《お婆さん》たちも存在する。彼等の一人が小さな声でささやくのを聴いた。《 当然だ。よくやった。》と。私も、そうささやく一人である。言うまでもなく、爆弾テロもまた、《民主主義》の基本である。政治家たちが、与党、野党をとわず、テロは、《民主主義 》への挑戦であり、《民主主義》の根幹を揺るがすもの、あるいは、《民主主義 》を破壊すものだ、というようなことを言っている。果たして、そうか。民主主義とは、《選挙》で選ばれた《 政治家 》だけのものか。《 選挙 》がそんなに神聖なものか。日本国民の五割は、選挙にいかない。《選挙》という民主主義に名を借りた悪弊にソッポを向けているのだ。選挙は、民主主義の堕落した偽装形態にすぎない。民主主義とは、一般民衆、一般民衆の一人ひとりのものではないのか。一般民衆、一般大衆が、政治への参加を閉ざされた時、《 民主主義 》を求めて、あるいは《民主主義 》の回復、蘇生を求めて、一般庶民や一般民衆は、暴力やテロに走るのではないか。《民主主義 》の基本は《選挙 》ではなく、テロである。テロは民衆の政治参加である。爆笑テロに《拍手喝采 》するのは、《民主主義 》そのものであり、且つもっとも神聖な民主主義的儀式であろう。
政治家たちよ、思い上がるなかれ。政治家たちよ、民衆を畏れよ。民衆の怒りを畏れよ。民衆の聖なる暴力を畏れよ。
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石川啄木。
ココアのひと匙
一九一一・六・一五・TOKYO
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触に、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
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