■僕は昔から学者や新聞記者やジャーナリストより《政治家》や《実業家》が好きだった。
《 国民は黙って事変に処した》と小林秀雄は言っている。ここで、小林秀雄が《国民 》と言うのは、江藤淳が言うところの《 治者 》であろう。《 治者 》とは、たとえば、妻子のために、泥まみれで、カネを稼ぎ、一家をささえるが、あるいは戦争になると黙々、銃をかついで戦場に赴くが、勝っても負けても、綺麗事や愚痴は言わない。《清濁併せ呑む》という言葉がある。国民や治者は、文字通り、清濁併せ呑む存在である。その代表が政治家ではないのか。僕自身は、政治家や実業家タイプの人間ではなく、むしろ、学者、ジャーナリスト、評論家タイプの人間だったにもかかわらず、僕は政治家や実業家を尊敬していた。政治家や実業家こそ、《男の中の男 》だと、思っていた。政治家や実業家は、批判され、誹謗中傷されることが多い。政治家や実業家は、そういう時、大衆やマスコミから、批判や誹謗中傷されるがままで、ただひたすら沈黙を守るしかない。僕は、そういう時、沈黙に耐えるしかないない政治家や実業家の方が、荒唐無稽な、一見、偉そううなことを、口汚くまくしたてる学者や文化人やジャーナリストや、そして一般大衆・・・より、好きだった。僕は、《 荒唐無稽な、一見、偉そううなことを、口汚くまくしたてる学者や文化人やジャーナリストや、そして一般大衆・・・ 》という人種が大嫌いだった。それが、僕の思想的原点でもある。今、《政治とカネ 》が問題になっているらしい。キレイな政治が・・・などと、能天気なことを言っている。馬鹿か、お前ら。政治家や実業家には、カネが必要不可欠なのは当たり前だろう。カネのない政治家や実業家は、政治家失格、実業家失格だろう。つまり、政治家が、あらゆる手を尽くして金集めに熱中するのは当然ではないか、と僕は、昔から思っている。カネ集めの出来ない貧乏政治家は、政治家をやめた方がいい。貧乏政治家にろくな政治家はいない。貧乏政治家こそカネに汚いのである。貧乏政治家に 国家経営を任せるわけにはいかない。だから、僕は、田中角栄や小沢一郎のような剛腕政治家が好きだ。《金権政治家 》とか《利権政治家 》とか言って批判されることも多いが、それは無能な貧乏政治家の僻みであり、負け惜しみだろう。田中角栄や小沢一郎のような剛腕政治家だからこそ、アメリカにも、ものが言えるのだ。逆に言えば、アメリカやアメリカの手先になっている《 東京地検特捜部 》 や、そしてアメリカの植民地支配の協力者である学者や文化人に、口汚く罵られるのである。僕の年下の友人で 、政治思想家で、『維新と興亜』の編集長もやっている坪内隆彦氏に、『 アジア英雄伝』という名著があるが、そこに出てくるアジアの政治家に、たとえばフィリピンのマルコス、インドネシアのスカルノなどがいるが、いずれも金権体質の清濁併せ呑む剛腕政治家だった。その彼等が、アメリカ支配を打ち破って、フィリピンやインドネシアを独立国にしたのである。彼等の剛腕を恐れたアメリカの謀略で、潰されたが・・・。清貧な貧乏政治家はいらない。《 米国のイヌ=岸田》のような清貧な売国奴政治家こそ、国民の手で潰すべきだ・・・。