上野千鶴子の江藤淳論を読んでいると、その根底に、江藤淳批判と江藤淳否定論が潜んでいることが感じられる。何回も書くが、上野千鶴子の江藤淳論と吉本隆明や柄谷行人等の書く江藤淳論とは、何かが決定的に違うように思われる。上野千鶴子の江藤淳論における思考力は、文学的思考力や批評的思考力とは違う。つまり、上野千鶴子の思考力は、社会学的思考力なのだ。だから、上野千鶴子が、どれだけ江藤淳を絶賛しようとも、絶賛したことにはならない。深いところで、上野千鶴子は、江藤淳を理解できていない。表面的な理解である。私は、江藤淳没後の江藤淳論に、上野千鶴子的な、つまり社会学的な江藤淳論を感じる。その種の江藤淳論は、江藤淳の本質を理解出来ていないが故に、即座に江藤淳否定論に転化するか、江藤淳への低評価へと直結する。
私は、学生時代、江藤淳と吉本隆明を同時に感激しながら読んでいた。江藤淳と吉本隆明は、思想的には明らかに立場を異にしている。しかし、私は、同時並行的に読みながら、すこしも矛盾を感じなかった。私は、思想的レベルで、読んでいなかった。私は、江藤淳と吉本隆明に共通する《 過激な思考力 》が、つまり私の言葉で言い換えると《存在論的思考力 》が好きだった。吉本隆明は江藤淳との対談で、そのことについて 語っている。
《 江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかりちがって一致しているような感じがする(笑)。》(江藤・吉本隆明対談集『 文学と思想』)
思想的、つまりイデオロギー的には異なっているが、思考の根柢においては《 一致 》している、ということである。私が、何の違和感もなしに江藤淳と吉本隆明を、同時並行的に読むことができたのは、ここに理由がある。言い換えれば、江藤淳と吉本隆明が共有する《 存在論的思考力 》を、私は、私なりに理解していたということだろう。これを、上野千鶴子に引き付けてみれば、上野千鶴子には、この《 存在論的思考力 》がない、あるいは《存在論的思考力 》を理解していないということだろう。