山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️薩摩半島の限界集落に残る掘立て小屋『毒蛇山荘』で江藤淳を読む・・・『江藤淳とその時代』原稿下書き⑴。 柄谷行人が、『掘立て小屋の思考』という短文のエッセイで、「実存主義」と「実存」を区別して 、自分は、「実存主義」的言葉の使い方が嫌いだ、といっている。つまり「実存」は好きだが「実存主義」的な議論の仕方は嫌いだということである。言い換えると、ヘーゲルは 、壮大な建築を建てたが 、自分自身は、その隣に建つ貧相な「掘立て小屋」に住んでいる、と。そして、ヘーゲルだけではなく、マルクスもニーチェもキルケゴール

⬛️薩摩半島限界集落に残る掘立て小屋『毒蛇山荘』で江藤淳を読む・・・『江藤淳とその時代』原稿下書き⑴。

柄谷行人が、『掘立て小屋の思考』という短文のエッセイで、「実存主義」と「実存」を区別して 、自分は、「実存主義」的言葉の使い方が嫌いだ、といっている。つまり「実存」は好きだが「実存主義」的な議論の仕方は嫌いだということである。言い換えると、ヘーゲルは 、壮大な建築を建てたが 、自分自身は、その隣に建つ貧相な「掘立て小屋」に住んでいる、と。そして、ヘーゲルだけではなく、マルクスニーチェキルケゴールも、一流の思想家はみんな掘立て小屋に住んでいるのだ、と。私はこのエッセイが大好きだが、柄谷行人の弱点は、わざわざこういうことを言わなければならなかったことにある。柄谷行人は、世の《学者》や《 思想家 》たちに、ご丁寧に説教しているわけだが 、説教する必要などないのであって、ただ《お前たちは馬鹿だ、阿呆だ、ゴミだ 》と言っておけばいいだけのことだ。柄谷行人は、世の《学者》や《 思想家 》たちに気をつかっているのである。江藤淳吉本隆明は 、柄谷行人のように 「説教」などはしなかった。すぐに、世の《 学者 》や《思想家》たちを相手に罵倒と論争とに取り組んだ。たとえば、江藤淳吉本隆明は、当時、東大法学部教授として、学問や思想、ジャーナリズムの世界に君臨していた《 丸山眞男 》を相手に、激しい論争を仕掛けた。多勢に無勢で、無力ではあったが 、その記憶は歴史には残った。その後、《 丸山眞男 》は、江藤淳吉本隆明の《丸山眞男批判》を受け継いだかのようにみえる、いわゆる《 全共闘 》の学生たちの手によって、具体的に、且つ暴力的に、その戦後史における思想責任を追求され、東大の丸山研究室までが無惨に荒らされるという悲惨な目にあうことになる。その時、丸山眞男が発した言葉が有名である、《ナチスも日本の軍国主義 もやらかった蛮行だ 》・・・。
さて、江藤淳の話に戻る。江藤淳は、《実存主義 》と《実存》を明確に区別していた。江藤淳という文芸評論家は、一見すると、《思想 》や《 哲学 》や《 学問 》とは、無縁な人のように見える 。たかだか、《文弱の徒》ぐらいにしか見えない。むろん、それは大きな間違いである。江藤淳は、徹底的に《 実存 》にこだわった批評家であり思想家だった。ただ《 実存主義》的な語り方をしなかっただけである。当時、《実存主義 》の哲学や理論を連呼していた《学者 》や《 思想家 》たちは、その後、どうなったのだろうか。みんな、歴史の中で、藻屑のごとく消えたのではないか。それは、彼らの言説がニセモノだったからだ。たとえば、江藤淳が、アメリカ留学を終えて帰国後、文学外の戦後政治史や米軍の検閲問題、押し付け憲法論・・・などの研究に取り組みはじめた時、多くの人が、驚き、呆れ、意外に思ったはずである。《 たかが文芸評論家のくせに余計な事に手を出すんじゃないよ 》と違和感を持つと同時に、嘲笑する人もいたはずである。その江藤淳をとりまく思想的気分は、今でも続いているはずである。
意外かもしれないが、江藤淳サルトルの影響を強く受けている。日比谷高校時代に、サルトルを熟読している。そして、慶応大文学部に進学しているが、江藤淳は、慶応大仏文科で、フランス文学を専攻し、その中でもサルトルを選択して、サルトルを研究するつもりだったと、私は推測する。当時の慶応大仏文科は 、サルトルの『嘔吐』の翻訳者として売り出し中の白井浩司助教授(准教授)を中心に サルトル研究のメッカになりつつあったからだ。私が、江藤淳から10年後に入学した頃の慶應大もそうだった。その頃、慶應と京都の出版社《 人文書院 》の招待でサルトルが来日し、慶應で講演会が盛大に行なわれたが、それは慶應大とサルトルの密接な関係を示す証拠になるだろう。しかし、江藤淳は、入学後、フランス文学志望から英文学へ転向した。私は、そこに大きな転機があったと想像している。多分、この想像は間違っていないはずだ。このフランス文学志望から英文学への転向が、江藤淳江藤淳になった大きな転機だった。江藤淳は、この時、文字通り、《実存主義 》から《実存》に転向したのである。それは《実存主義 》的思考から《実存 》的思考への転向であった。
ところで、特筆すべきは、江藤淳と意気投合する『三田文学』編集長の山川方夫も、サルトルの影響を強く受けている。当時の山川方夫は、慶應大仏文科で、佐藤朔教授や白井浩司助教授(准教授)の元で、サルトルを勉強する大学院生だった。卒論も《 サルトル論》だった。いづれにしろ、江藤淳山川方夫や『三田文学』の周辺には、サルトル的雰囲気が充満していたのである。