山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■昨日は午前中に《丘の上の温泉》に行き、その後、近くのレストランで、300円のザルソバを酒の肴にビールを飲んで 、ひそかに祝盃をあげてきた。帰宅後は、買いたての新鮮な250円のキビナゴで焼酎。最近、キビナゴは、そのまま、丸呑み(丸かじり)するようになったが、これがまた絶品。その後は、炬燵に入りっぱなしで、夜も忘れて爆睡。さー、今日から、連載原稿が二つあるので、(『江藤淳論』と『石原莞爾論』)、《ねじり鉢巻》(笑)で頑張ろう。常時、戦闘モードの《白髪老人》は荒野を目指す。地震がなんだ、津波がなんだ。俺は俺だ

■昨日は午前中に《丘の上の温泉》に行き、その後、近くのレストランで、300円のザルソバを酒の肴にビールを飲んで 、ひそかに祝盃をあげてきた。帰宅後は、買いたての新鮮な250円のキビナゴで焼酎。最近、キビナゴは、そのまま、丸呑み(丸かじり)するようになったが、これがまた絶品。その後は、炬燵に入りっぱなしで、夜も忘れて爆睡。さー、今日から、連載原稿が二つあるので、(『江藤淳論』と『石原莞爾論』)、《ねじり鉢巻》(笑)で頑張ろう。常時、戦闘モードの《白髪老人》は荒野を目指す。地震がなんだ、津波がなんだ。俺は俺だ。俺はここにいる。ここが俺のロドスだ。消防も自衛隊もボランテイアも来るな。俺の死に場所は俺が選ぶ。

⬛️荒れ果てし廃屋の庭にも花は咲く。 枝垂れ梅に花咲く頃になったようです。我が『毒蛇山荘』の荒れ果てた庭の枝垂れ梅にも、小さな白い花が本格的に咲き始めたようです。書斎の窓から梅の白い花を眺めながら飲む冷たい缶ビールも最高です。枝垂れ梅の木の下には 、多くの『死体』が埋まっているのかも・・・。さて、我が無許可の《古民家哲学カフェ》ですが、先日は、元二階堂進秘書、元鹿児島県会議員のU氏が、まぼろしの銘酒(焼酎)を片手に来てくれました。昼間から呑みはじめ、その後は 夢の中、でした。あとは野となれ山となれ 、で

⬛️荒れ果てし廃屋の庭にも花は咲く。

枝垂れ梅に花咲く頃になったようです。我が『毒蛇山荘』の荒れ果てた庭の枝垂れ梅にも、小さな白い花が本格的に咲き始めたようです。書斎の窓から梅の白い花を眺めながら飲む冷たい缶ビールも最高です。枝垂れ梅の木の下には 、多くの『死体』が埋まっているのかも・・・。さて、我が無許可の《古民家哲学カフェ》ですが、先日は、元二階堂進秘書、元鹿児島県会議員のU氏が、まぼろしの銘酒(焼酎)を片手に来てくれました。昼間から呑みはじめ、その後は 夢の中、でした。あとは野となれ山となれ 、ですかね。

■薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑷。 私が石原莞爾に興味を持つにいたったのは、東京裁判臨時法廷におけるその奇抜な言動に接したからではない。また、満洲事変における軍人としての天才的な軍事戦略と大活躍のせいでもない。何回も繰り返すが、《 日蓮 》や《日蓮宗 》について、『世界最終戦争論』の中で、戦争論や戦略論を論じながら、同時に、大真面目に論じているのに感動したからである。石原莞爾は、自分の信じる宗教は《 日蓮宗 》である、自分が死んだら葬式は日蓮宗でやってくれ、などと、

薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑷。

私が石原莞爾に興味を持つにいたったのは、東京裁判臨時法廷におけるその奇抜な言動に接したからではない。また、満洲事変における軍人としての天才的な軍事戦略と大活躍のせいでもない。何回も繰り返すが、《 日蓮 》や《日蓮宗 》について、『世界最終戦争論』の中で、戦争論や戦略論を論じながら、同時に、大真面目に論じているのに感動したからである。石原莞爾は、自分の信じる宗教は《 日蓮宗 》である、自分が死んだら葬式は日蓮宗でやってくれ、などと、呑気なことを言っているのではない。『世界最終戦争論』という論文の中で、むしろその思想的根拠として《日蓮 》や《 日蓮宗》の思想や論理を持ち出しているのだ。私は、石原莞爾の『世界最終戦争論』の一節を読んではじめて、《日蓮 》や《日蓮宗 》に興味を持った。普通なら、『世界最終戦争論』というタイトルに興味をもって読みはじめた人でも、《 日蓮 》や《日蓮宗 》の話が出てくると、違和感を感じ、読み進めるのをやめるかもしれない。あるいは、そこを、飛ばして、次の章を読み続けるかもしれない。しかしそれを許さないのが石原莞爾の『世界最終戦争論』である。何故なら、『世界最終戦争論』の基礎的論理として、《 日蓮 》や《 日蓮宗》が定位されているからだ。言い換えると、『世界最終戦争論』の思想と論理を理解するためには、《 日蓮 》や《日蓮宗》の理解が不可欠だからだ。たとえば、《 最終戦争》という言葉からは、キリスト教的な《 終末論 》を連想させるが、石原莞爾の場合は、キリスト教的終末論ではなく、日蓮宗的な《 終末論》、つまり日蓮宗的な《 末世思想》である。

日蓮聖人 が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言しておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現われるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきものだと信ずるのであります。 》(石原莞爾『世界最終戦争論』)

さらに、これに続けて、国柱会の田中智学の名前を出して、次のように言っている。

《・・・私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人 以後の第一人者である田中智学先生が、大正七年のある講演で 「 一天四海皆帰妙法は四十八年間に成就し得るとという算盤を弾いている」と述べていることです。大正八年から四十八年くらいで世界が統一されると言っております。》

だから、私は、保阪正康から福田和也まで、その石原莞爾論や石原莞爾伝に、不満と違和感を感じるのである。日蓮宗系の《国柱会》の狂信的な信者であった石原莞爾が捉えられていないからだ。私は、その熱狂的な《 狂信性 》にこそ 、石原莞爾の存在本質があるのではないか、と考えるからだ。

⬛️薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑶。 私は《政治漫談 》や《経済漫談 》が嫌いである。もちろん私も《 政治漫談 》や《 経済漫談 》を、まったくやらないわけではない。そういう時、私は、常に自己批判と自己懐疑を感じ、最終的には自己嫌悪におちいる。《 こんなことをやって、なんになるのだ》《 自己満足 になるだけだ・・・》と思わないわけにはおれないのだ。《 政治漫談 》や《 経済漫談》とは、私にとっては、そういうものだ。福田和也の大著を読みながら、そういうことを考えた

⬛️薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑶。

私は《政治漫談 》や《経済漫談 》が嫌いである。もちろん私も《 政治漫談 》や《 経済漫談 》を、まったくやらないわけではない。そういう時、私は、常に自己批判と自己懐疑を感じ、最終的には自己嫌悪におちいる。《 こんなことをやって、なんになるのだ》《 自己満足 になるだけだ・・・》と思わないわけにはおれないのだ。《 政治漫談 》や《 経済漫談》とは、私にとっては、そういうものだ。福田和也の大著を読みながら、そういうことを考えた 。福田の大著には、《 石原莞爾とは何か 》という本質論、原理論、つまり《 存在論 》が欠如しているようにみえるのだ。あるのは、すでに、誰でも、何処かで聞いたり読んだりしたことのある公知の《 政治漫談 》ばかりだ 。だから 、ただ長いだけがとりえの《 冗長な大著》ということになるのだろう。これは、原稿料稼ぎの大衆作家や大衆文学がやることだろう。たとえば、東京裁判における石原莞爾の奇抜な発言の場面がある。当時、膀胱炎で重篤な状況だった石原莞爾は、酒田市の酒田商工会議所に設置された東京裁判臨時法廷に呼び出され、そこで尋問を受けることになったが、福田和也がは、次のように書いている。

《 開廷した直後判事から、「尋問に先立って 何か云うことはばいか」 と問われて、「自分が、なぜ戦犯にされないのか、まったく腑に落ちない 」と云いはなって、一座を唖然とさせた。》(福田和也『 地ひらく』)

「自分が、なぜ戦犯にされないのか、まったく腑に落ちない 」・・・。なかなか、ふてぶてしい辛辣な言葉だ。しかし、私は、こういう言葉(対話)には《唖然》としない。むしろ、なにか、芝居がかった作為的な、幼児的なものを感じて、興醒めする。石原莞爾は、自分が《戦犯》にならなかったという結果論を前提にした上で、この暴言を放っている。しかも場所が、多くの注目を浴びていたとはいえ、市ヶ谷の東京裁判軍事法廷ではなく、酒田市の臨時法廷である。私は、こういう奇抜な放言に接して、しきりに石原莞爾を、単純素朴に偶像崇拝する連中に追随して、絶賛する気にはなれない。しかし、それでもなお、私も、石原莞爾はタダモノではなかったとは思う。私は、単純に神話化し、偶像崇拝する前に、それを言わしめた石原莞爾という軍人の内面と思想に興味を持つ。石原莞爾とは何者だったのか。

⬛️薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑶。 私は《政治漫談 》や《経済漫談 》が嫌いである。もちろん私も《 政治漫談 》や《 経済漫談 》を、まったくやらないわけではない。そういう時、私は、常に自己批判と自己懐疑を感じ、最終的には自己嫌悪におちいる。《 こんなことをやって、なんになるのだ》《 自己満足 になるだけだ・・・》と思わないわけにはおれないのだ。《 政治漫談 》や《 経済漫談》とは、私にとっては、そういうものだ。福田和也の大著を読みながら、そういうことを考えた

⬛️薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑶。

私は《政治漫談 》や《経済漫談 》が嫌いである。もちろん私も《 政治漫談 》や《 経済漫談 》を、まったくやらないわけではない。そういう時、私は、常に自己批判と自己懐疑を感じ、最終的には自己嫌悪におちいる。《 こんなことをやって、なんになるのだ》《 自己満足 になるだけだ・・・》と思わないわけにはおれないのだ。《 政治漫談 》や《 経済漫談》とは、私にとっては、そういうものだ。福田和也の大著を読みながら、そういうことを考えた 。福田の大著には、《 石原莞爾とは何か 》という本質論、原理論、つまり《 存在論 》が欠如しているようにみえるのだ。あるのは、すでに、誰でも、何処かで聞いたり読んだりしたことのある公知の《 政治漫談 》ばかりだ 。だから 、ただ長いだけがとりえの《 冗長な大著》ということになるのだろう。これは、原稿料稼ぎの大衆作家や大衆文学がやることだろう。たとえば、東京裁判における石原莞爾の奇抜な発言の場面がある。当時、膀胱炎で重篤な状況だった石原莞爾は、酒田市の酒田商工会議所に設置された東京裁判臨時法廷に呼び出され、そこで尋問を受けることになったが、福田和也がは、次のように書いている。

《 開廷した直後判事から、「尋問に先立って 何か云うことはばいか」 と問われて、「自分が、なぜ戦犯にされないのか、まったく腑に落ちない 」と云いはなって、一座を唖然とさせた。》(福田和也『 地ひらく』)

「自分が、なぜ戦犯にされないのか、まったく腑に落ちない 」・・・。なかなか、ふてぶてしい辛辣な言葉だ。しかし、私は、こういう言葉(対話)には《唖然》としない。むしろ、なにか、芝居がかった作為的な、幼児的なものを感じて、興醒めする。石原莞爾は、自分が《戦犯》にならなかったという結果論を前提にした上で、この暴言を放っている。しかも場所が、多くの注目を浴びていたとはいえ、市ヶ谷の東京裁判軍事法廷ではなく、酒田市の臨時法廷である。私は、こういう奇抜な放言に接して、しきりに石原莞爾を、単純素朴に偶像崇拝する連中に追随して、絶賛する気にはなれない。しかし、それでもなお、私も、石原莞爾はタダモノではなかったとは思う。私は、単純に神話化し、偶像崇拝する前に、それを言わしめた石原莞爾という軍人の内面と思想に興味を持つ。石原莞爾とは何者だったのか。

■薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑵。 私が、『世界最終戦争論』で、もっとも面白いと思い、思わず引きずり込まれたのは、日蓮や日蓮宗の問題であった。だから、私は、以後、石原莞爾について語る奴が、《 戦争》や《戦略 》のことしか語らず、《 日蓮宗 》を中心に《 宗教 》の話題をスルーしている人を見ると、《 コイツはチャント、『世界最終戦争論』を読んでないな》と思うことにしている。さすがに福田和也は、そこも読んでいるらしいが、しかし私から言わせると、まだ不十分である。通り

薩摩半島の山奥の『毒蛇山荘』で石原莞爾の『世界最終戦争論』を読む⑵。

私が、『世界最終戦争論』で、もっとも面白いと思い、思わず引きずり込まれたのは、日蓮日蓮宗の問題であった。だから、私は、以後、石原莞爾について語る奴が、《 戦争》や《戦略 》のことしか語らず、《 日蓮宗 》を中心に《 宗教 》の話題をスルーしている人を見ると、《 コイツはチャント、『世界最終戦争論』を読んでないな》と思うことにしている。さすがに福田和也は、そこも読んでいるらしいが、しかし私から言わせると、まだ不十分である。通りいっぺんの分析と解釈しかしていない。福田和也石原莞爾伝『 地ひらく』は、昭和史の解説としては、詳しく面白いのかもしれないが、石原莞爾伝としては、浅薄で、深みに欠ける。要するに、石原莞爾に関する思想的な読みが足りない。石原莞爾は《 天才的軍人 》であったとか、優秀な《 戦略家》であったとか言うこととは誰にでもできるが、何故、《 天才的軍人 》であり、優秀な《 戦略家》であったいのかの根拠や思想的背景を明確に分析し、解明できる人はいない。それは、私に言わせれば、誰も、石原莞爾の主著『世界最終戦争論』を深く読み込んでいないからである。

⬛️薩摩半島の限界集落に残る掘立て小屋『毒蛇山荘』で江藤淳を読む・・・『江藤淳とその時代』原稿下書き⑴。 柄谷行人が、『掘立て小屋の思考』という短文のエッセイで、「実存主義」と「実存」を区別して 、自分は、「実存主義」的言葉の使い方が嫌いだ、といっている。つまり「実存」は好きだが「実存主義」的な議論の仕方は嫌いだということである。言い換えると、ヘーゲルは 、壮大な建築を建てたが 、自分自身は、その隣に建つ貧相な「掘立て小屋」に住んでいる、と。そして、ヘーゲルだけではなく、マルクスもニーチェもキルケゴール

⬛️薩摩半島限界集落に残る掘立て小屋『毒蛇山荘』で江藤淳を読む・・・『江藤淳とその時代』原稿下書き⑴。

柄谷行人が、『掘立て小屋の思考』という短文のエッセイで、「実存主義」と「実存」を区別して 、自分は、「実存主義」的言葉の使い方が嫌いだ、といっている。つまり「実存」は好きだが「実存主義」的な議論の仕方は嫌いだということである。言い換えると、ヘーゲルは 、壮大な建築を建てたが 、自分自身は、その隣に建つ貧相な「掘立て小屋」に住んでいる、と。そして、ヘーゲルだけではなく、マルクスニーチェキルケゴールも、一流の思想家はみんな掘立て小屋に住んでいるのだ、と。私はこのエッセイが大好きだが、柄谷行人の弱点は、わざわざこういうことを言わなければならなかったことにある。柄谷行人は、世の《学者》や《 思想家 》たちに、ご丁寧に説教しているわけだが 、説教する必要などないのであって、ただ《お前たちは馬鹿だ、阿呆だ、ゴミだ 》と言っておけばいいだけのことだ。柄谷行人は、世の《学者》や《 思想家 》たちに気をつかっているのである。江藤淳吉本隆明は 、柄谷行人のように 「説教」などはしなかった。すぐに、世の《 学者 》や《思想家》たちを相手に罵倒と論争とに取り組んだ。たとえば、江藤淳吉本隆明は、当時、東大法学部教授として、学問や思想、ジャーナリズムの世界に君臨していた《 丸山眞男 》を相手に、激しい論争を仕掛けた。多勢に無勢で、無力ではあったが 、その記憶は歴史には残った。その後、《 丸山眞男 》は、江藤淳吉本隆明の《丸山眞男批判》を受け継いだかのようにみえる、いわゆる《 全共闘 》の学生たちの手によって、具体的に、且つ暴力的に、その戦後史における思想責任を追求され、東大の丸山研究室までが無惨に荒らされるという悲惨な目にあうことになる。その時、丸山眞男が発した言葉が有名である、《ナチスも日本の軍国主義 もやらかった蛮行だ 》・・・。
さて、江藤淳の話に戻る。江藤淳は、《実存主義 》と《実存》を明確に区別していた。江藤淳という文芸評論家は、一見すると、《思想 》や《 哲学 》や《 学問 》とは、無縁な人のように見える 。たかだか、《文弱の徒》ぐらいにしか見えない。むろん、それは大きな間違いである。江藤淳は、徹底的に《 実存 》にこだわった批評家であり思想家だった。ただ《 実存主義》的な語り方をしなかっただけである。当時、《実存主義 》の哲学や理論を連呼していた《学者 》や《 思想家 》たちは、その後、どうなったのだろうか。みんな、歴史の中で、藻屑のごとく消えたのではないか。それは、彼らの言説がニセモノだったからだ。たとえば、江藤淳が、アメリカ留学を終えて帰国後、文学外の戦後政治史や米軍の検閲問題、押し付け憲法論・・・などの研究に取り組みはじめた時、多くの人が、驚き、呆れ、意外に思ったはずである。《 たかが文芸評論家のくせに余計な事に手を出すんじゃないよ 》と違和感を持つと同時に、嘲笑する人もいたはずである。その江藤淳をとりまく思想的気分は、今でも続いているはずである。
意外かもしれないが、江藤淳サルトルの影響を強く受けている。日比谷高校時代に、サルトルを熟読している。そして、慶応大文学部に進学しているが、江藤淳は、慶応大仏文科で、フランス文学を専攻し、その中でもサルトルを選択して、サルトルを研究するつもりだったと、私は推測する。当時の慶応大仏文科は 、サルトルの『嘔吐』の翻訳者として売り出し中の白井浩司助教授(准教授)を中心に サルトル研究のメッカになりつつあったからだ。私が、江藤淳から10年後に入学した頃の慶應大もそうだった。その頃、慶應と京都の出版社《 人文書院 》の招待でサルトルが来日し、慶應で講演会が盛大に行なわれたが、それは慶應大とサルトルの密接な関係を示す証拠になるだろう。しかし、江藤淳は、入学後、フランス文学志望から英文学へ転向した。私は、そこに大きな転機があったと想像している。多分、この想像は間違っていないはずだ。このフランス文学志望から英文学への転向が、江藤淳江藤淳になった大きな転機だった。江藤淳は、この時、文字通り、《実存主義 》から《実存》に転向したのである。それは《実存主義 》的思考から《実存 》的思考への転向であった。
ところで、特筆すべきは、江藤淳と意気投合する『三田文学』編集長の山川方夫も、サルトルの影響を強く受けている。当時の山川方夫は、慶應大仏文科で、佐藤朔教授や白井浩司助教授(准教授)の元で、サルトルを勉強する大学院生だった。卒論も《 サルトル論》だった。いづれにしろ、江藤淳山川方夫や『三田文学』の周辺には、サルトル的雰囲気が充満していたのである。