山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

江藤淳の東十条駅物語。 昨日は、コロナ禍が影響して、異常な安値になっている東京都心のホテルに一泊した。正午頃、チェックアウトして、東十条駅へ向かった。私は、普段、東十条駅に降りることはほとんどない。今までにも、一、二回しかないと思う。では、昨日、何故、東十条駅に降りたのか。実は、私は、今年、『月刊日本』に『江藤淳とその時代 』の連載を開始した。私は、江藤淳に関して新しい情報や珍しい資料を持っているわけではない。私が、持っているのは、誰でもが持っている情報や資料にすぎない。もし、私の『江藤淳とその時代



江藤淳東十条駅物語。
昨日は、コロナ禍が影響して、異常な安値になっている東京都心のホテルに一泊した。正午頃、チェックアウトして、東十条駅へ向かった。私は、普段、東十条駅に降りることはほとんどない。今までにも、一、二回しかないと思う。では、昨日、何故、東十条駅に降りたのか。実は、私は、今年、『月刊日本』に『江藤淳とその時代 』の連載を開始した。私は、江藤淳に関して新しい情報や珍しい資料を持っているわけではない。私が、持っているのは、誰でもが持っている情報や資料にすぎない。もし、私の『江藤淳とその時代 』に「誇れる」ものがあるとすれば、それは、誰もが持っている情報や資料を元に、私なりの独断と偏見に基づく独自の分析や評価や解釈の部分だろう。というわけで、私は、東十条駅に降りたったのである。東十条駅京浜東北線の駅だ。私は、東京駅や有楽町駅、新橋駅、田町駅・・・などへ向かう時は、いつも東十条駅を通過して、目的地へ向かう。しかし東十条駅は通過するだけの駅で、まったく馴染みはない。ところで、江藤淳は、当時、つまり、高校、大学時代、北区十条仲原3丁目1番地の「帝銀社宅」(三井住友銀社宅 )に住んでいた。最寄り駅が、十条駅東十条駅だったことは間違いない。私は、十条駅だと思っていたが、東十条駅だった可能性もゼロではない。湘南中学( 湘南高校生)時代の友人達が、ここ東十条駅で降りて江藤淳宅に向かった、とあったから、江藤淳東十条駅に迎えに行ったのかもしれない。そしてまた転入した日比谷高校へも 、この東十条駅から通学したのかもしれない。もちろん、田町駅を最寄駅とする慶応義塾大学三田キャンパスへは、この東十条駅を使っただろう、と思う。東十条駅は、江藤淳にとっては、思い出の詰まった駅なのだ。私は、そう思って、昨日、東十条駅駅に降りたったのだ。そして東十条駅から北区十条仲原3丁目1番地を求めて、十条界隈を徘徊したのだ。北区十条仲原3丁目1番地は確認できなかったが、ほぼ見当はついた。私は、十条駅からは、青春時代の江藤淳の足跡を追い求めて、既に数回、探し回ったことはあった。今となっては、十条銀座も懐かしい。十条駅を降りて、十条銀座を経て、環七を横断する。すると、すぐそこには、下方に赤羽駅が見える。一度は、赤羽駅まで歩いたこともある。江藤淳は、この街に、高校 、大学時代の七年間を過ごした。実は江藤淳というと、鎌倉や新宿区百人町 、あるいは軽井沢千ヶ滝の街や土地などが思い出されるが、江藤淳にとってもっとも重要な街と土地は 、それらではない。北区十条仲原3丁目1番地こそ 、江藤淳を生み出したまちだった。江藤淳は、この街で、高校、大学時代の七年間を過ごしている。文芸批評を書きき始めたのこの街だった。文芸評論家=江藤淳の誕生にとって、もっとも重要な、 記念すべき場所なのだ。