■『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代』(6)に向けて〜。その原稿の下書き的メモです。
『江藤淳とその時代』(5)を、先日、どうにか書き終えました。「江藤淳の原点=十条時代」というテーマでしたが、枚数の限界もあり、書き足りなかったので、もう少し書き加えようと思います。江藤淳は、北区十条仲原3丁目1番地での生活を「穢土」と呼んでいます。この「穢土」という言葉には驚きますが、江藤淳が、この時代を、あるいはこの街を、どう見ていたか、どう感じていたか、あるいは、江藤淳自身の文学や学問にとって、どのように重要な意味や価値を持っていたかを考える上で、おそらく、この「穢土」という言葉は、キーワードとなる言葉です。江藤淳自身が、「北区十条仲原3丁目1番地」での七年間に、「文芸評論家=江藤淳」になった、と言っているように、江藤淳の批評は、「穢土」から生まれたと言っていいということでしょう。
江藤淳を、根拠もなく毛嫌いし、江藤淳の文章をまともに読んだこともないにも関わらず、古臭い文学趣味を根拠に、江藤淳を批判し、否定し、罵倒する人たちの多くが、この事実を知りません。江藤淳という文学者を、ブルジョワ趣味の上昇志向型インテリの「俗物」と見て、軽蔑的に嫌悪している人は少なくないと思われます。しかし、そういう人たちは、読みが浅いと言うべきです。いや、そういう人たちの文学趣味や文学観が、古すぎると思う。江藤淳の批評や文学は、過激である。「俗物であることを恐れない俗物」はもはや「俗物」ではない。「長生きが一番〜」「命あっての物種~」というような俗物的価値観とは対極にある「自殺」というかたちで、人生を終えた江藤淳は、明らかに俗物ではなかった。江藤淳を、「俗物」と見て、軽蔑、嘲笑していた人たちこそ俗物的価値観に囚われた俗物の典型であったと言うべきだろう。