山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■江藤淳の『一族再会』を読みながら⑴。(この草稿は『月刊日本」連載の『江藤淳とその時代 』 の下書きです。) 自分の父や母、そして祖父や祖母について、あるいはまた、その前の曽祖父や曽祖母について、その意味や価値について真剣に向き合い、それらと格闘しつつ、詳細に書き続けた作品というものが、あるのかどうか、私は、無学ゆえに知らない。あるような気もするが、ないような気もする。簡単な家系図を記したものなら、いくらでもあるだろうが、既にこの世にいない曽祖父や曽祖母について、その生まれ育った土地まで訪ね歩いて、さら

江藤淳の『一族再会』を読みながら⑴。(この草稿は『月刊日本」連載の『江藤淳とその時代 』 の下書きです。)

自分の父や母、そして祖父や祖母について、あるいはまた、その前の曽祖父や曽祖母について、その意味や価値について真剣に向き合い、それらと格闘しつつ、詳細に書き続けた作品というものが、あるのかどうか、私は、無学ゆえに知らない。あるような気もするが、ないような気もする。簡単な家系図を記したものなら、いくらでもあるだろうが、既にこの世にいない曽祖父や曽祖母について、その生まれ育った土地まで訪ね歩いて、さらに遠縁の親類までも探し出し、思い出話にふけりつつ、先祖たちの面影を書き留めていく、そういう話を、私は読んだことがない。江藤淳の『一族再会』は、そういう作品である。もちろん、誰でも、自分が、目の前にいる父の子であり、母の子であること、あるいは祖母や祖父の血を継ぐ孫であることは、知っている。しかし、それらは、自明なことのように見えるが、必ずしもそうではない。多くの人がそうであると思うが、私もまた、夏休みのお盆の頃になると、昼寝をしながら、父や母と、ノートに 家系図を書いて楽しんだものである。しかし、それ以上のことはやらない。それ以上のことをやったのが江藤淳の『一族再会』である。ここには、自分にも分からなような、不可解な情熱と執念と怨念があるはずだ。江藤淳を『一族再会』にまで導いた情熱と執念と怨念とはなんだったのだろうか。江藤淳は、『一族再会』で、祖母が亡くなった通夜の晩のところに書いている。

《祖母は以前、私に自分の「一代記」を書いてほしいといっていたことがあった。明治、大正、昭和の三代を生きて来た女の生涯にはいろいろなことがあった。それを書きのこしてほしいというのである。それは祖母がいくらか幸福な気分でいるときの言葉であったが、いつかはその「一代記」というやつを書かなければと私は思い、はじめて涙を流した。それにしても私はまだ祖母からこれという話を聴いていない。いまさらのようにそのことが悔やまれたのだった。》(『一族再会』)

ここに、『 一族再会』執筆の根本的動機があるようにみえる。当時、江藤淳は、旧制中学(湘南中学)の三年生であった。その頃、既に、ものを書く文学者というものになる決意を決めていたのだろうか。あるいは祖母は、この神経質な孫の中に、その才能の片鱗を認めていたのだろうか。つまり、江藤淳は、この祖母の執念と怨念、あるいは期待と願望を背負いながら、《文芸評論家 》というものになったのだろうか。どうも、私には、そういう気がする。ところで、この《祖母の死》とともに江藤淳一家の運命は急速に暗転し、一家は崩壊していく。鎌倉の家を売り払い、江藤淳も、父とともに、鎌倉から東京都内の北区十条の貧道な社宅へ転居する。学校も湘南中学から都立一中(日比谷高校)へと転校する。その後のことは前にも書いたのではぶく。言い換えると 、この《祖母 》 は、落ちぶれていく江藤淳一家を、最後の最後まで、必死で守りとおして来た強い女性だったということになる。だからこそ、江藤少年は、この祖母と激しく対立し、時には日本刀まで振り上げるような喧嘩もしたのだろう。

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