山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(3)。 江藤淳は、いわゆる《 60年安保 》を、どのように受け止め、どのように対応し、そして、どのように総括してきたのだろうか。江藤淳は、最初から《60年安保 》闘争に批判的だったわけではない。江藤淳もまた、闘争に参加していたのである。前にも述べたように、《 若い日本の会 》は、安保反対の運動を目指す組織だったのだ。しかも江藤淳は、その中心メンバーだった、メンバーの一人一人は 、それぞれ、独自の思想や思惑を持っていただろうが、少なくとも安保反対では一致して

⬛️江藤淳小林秀雄」論を読みながら考えたこと(3)。

江藤淳は、いわゆる《 60年安保 》を、どのように受け止め、どのように対応し、そして、どのように総括してきたのだろうか。江藤淳は、最初から《60年安保 》闘争に批判的だったわけではない。江藤淳もまた、闘争に参加していたのである。前にも述べたように、《 若い日本の会 》は、安保反対の運動を目指す組織だったのだ。しかも江藤淳は、その中心メンバーだった、メンバーの一人一人は 、それぞれ、独自の思想や思惑を持っていただろうが、少なくとも安保反対では一致していただろうと思われる。しかし、江藤淳は、かなり早い段階で、安保反対闘争に批判的になる。この頃、江藤淳が書いた文章に『戦後知識人の破産』という論文がある。《戦後知識人》とは、《60年安保 》闘争を主導して来た《丸山眞男》や《清水幾太郎》らのことである。江藤淳は、《60年安保 》闘争の熱もまださめやらぬ時点で、左翼リベラル派の象徴であった東大法学部教授の丸山眞男等を批判したのである。これは、明らかに早すぎる批判であった。江藤淳丸山眞男批判を理解する者は皆無で 、逆に、江藤淳の《 転向 》と《 変節 》が 、厳しく糾弾される始末であった。しかし、江藤淳丸山眞男批判に共感するものがいなかったわけではない。しかも、江藤淳に共感するものは、左翼過激派の中にいた。その一人が《吉本隆明》である。

■以下は、在野の民族派右翼の畏友=松本洋三氏のFacebookからのシェアです。鋭い分析です。《 自由民主党はアメリカ合衆国日本総督府だった》と。江藤淳を思い出しました。我が師=江藤淳は米国留学後、プリンストン大学に教員として採用されていましたが、このままではダメになると帰国を決断、帰国後は、《反米愛国 》となりました。孤立を恐れず、《親米保守派(自民党)》とも決別。孤立と孤独の中で 戦死しました。ご参考までに。 ーーーーーーーーーー 自民党末期 後世、今を、自末(自民党末期)と称するか日末(日本末期)と

■以下は、在野の民族派右翼の畏友=松本洋三氏のFacebookからのシェアです。鋭い分析です。《 自由民主党アメリカ合衆国日本総督府だった》と。江藤淳を思い出しました。我が師=江藤淳は米国留学後、プリンストン大学に教員として採用されていましたが、このままではダメになると帰国を決断、帰国後は、《反米愛国 》となりました。孤立を恐れず、《親米保守派(自民党)》とも決別。孤立と孤独の中で 戦死しました。ご参考までに。
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自民党末期
後世、今を、自末(自民党末期)と称するか日末(日本末期)と世界史に記されるか、日本は開闢以来はじめて内部崩壊に瀕している。

省みれば、自由民主党アメリカ合衆国日本総督府だった。

これを日本人の失地回復悲願の日本主義なる幻影に見せる手法として徹底して似非日本を布武した。

日本回帰が、あたかも成るかのような局面のたびに、日本人は自由民主党を救国政党と錯誤してきた。

自主憲法提唱もそれで、学生運動もそれで、反韓も、台湾危機も、戦後の日本人に訴求力のある政局のほぼ全ては、これを機に正に『日本を取り戻す』機運をでっち上げる宗主国の巧妙かつ狡猾な逆張りで不安を煽る統治手法なのだ。

日本人にはそれが最適と確信させる重大な欠陥をペリー以来のアメリカも日本植民地支配下の人民にも確信させる何かを近代日本は露呈したに違いない。

邪教で試薬され、安保条約で接種され、自民党を日本人にペースメーカーとして埋め込み、激しい動悸と安息を巧みに操作され飼い慣らされたのだ。

それにはアメリカ文化への憧憬という3S支配が日本人の拒絶反応の免疫抑制剤として極めて高い効果があったのだが、総督府自民党の放漫統治が、不世出の愛国烈士山上徹也の2発の銃声が大和の前頭前野の脆弱な抑制を外したのだ。一発目は既成概念を二発目は特攻精神堅持を目覚めさせたに違いない。

松本洋三

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(2)。 ところで、江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代背景についても、少し考えてみたい。江藤淳も人の子である。時代から超越していたわけではない。江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代は、いわゆる《60年安保 》の政治的時代であった。江藤淳が、「聲」第6号に 、「小林秀雄」論を連載を始めたのは、1960年1月である。1961年、「聲」休刊のため、続きを、『文学界』に移して、5月号から12月号まで連載する。そして、11月には、講談社から単行本『小林秀雄』を

⬛️江藤淳小林秀雄」論を読みながら考えたこと(2)。

ところで、江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代背景についても、少し考えてみたい。江藤淳も人の子である。時代から超越していたわけではない。江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代は、いわゆる《60年安保 》の政治的時代であった。江藤淳が、「聲」第6号に 、「小林秀雄」論を連載を始めたのは、1960年1月である。1961年、「聲」休刊のため、続きを、『文学界』に移して、5月号から12月号まで連載する。そして、11月には、講談社から単行本『小林秀雄』を刊行している。江藤淳は、その後、翌年の1962年8月には、ロックフェラー財団研究員として渡米している。これは、要するに、「小林秀雄」論が、安保騒動の渦中で書かれたことを意味している。戦時中の小林秀雄の緊張感が、そのまま江藤淳の「小林秀雄」論の文体の緊張感と重なるのは 、そのためではないか、とも思われる。
安保騒動の渦中で、江藤淳にも大きな思想的転換が起きていた。「転向」とか「変節」とか言われ 、厳しく糾弾されることになる思想的転換である。江藤淳は、「小林秀雄」論を書くことによって、極端な言い方をすれば、「左翼」から「右翼」へ、あるいは「革新」から「保守」へ、《転向》したかのように見えたのである。そのように見えたとしても無理はないかもしれない。1960年5月に、いわゆる《 60年安保》と言われる《 安保騒動 》があり、その渦中で、江藤淳は、石原慎太郎大江健三郎谷川俊太郎開高健等とともに、「若い日本の会」を結成し、その主要メンバーとして、安保反対の立場から、抗議集会を開くなど、かなり積極的に反政府的な政治行動に参加していたからである。ちなみに 、この反政府的な政治行動には 、多くの学生や知識人らも参加していたが、その中でも、国会周辺を埋めつくした群衆の中に 、つまり、もっと過激な反政府政治運動グループの中に、吉本隆明柄谷行人西部邁 等もいたらしい。これだけ多種多様な、多くの青年、学生、学者、知識人、労働者・・・等が参加した反政府運動は、珍しい。私は、《 60年安保 》闘争が、全国民的に盛り上がったのは、この政治闘争に、敗戦後の日本の独立、日本の主権回復という問題がからんでいたからではないか、と思う。サンフランシスコ平和条約で、日本は、米軍占領体制を脱し、形式的には、独立と主権を回復したとはいえ、まだ、実質的には占領体制は続いていた。江藤淳のような保守的な青年でさえ、占領体制を固定化、永続化しようとする《 日米安保条約》に反対して立ち上うがったのであろう。

そういう時代に、いち早く、その反政府的な政治運動から抜け出したのが江藤淳であった。「夏目漱石」論でデビューした江藤淳が、「小林秀雄」論を書き 、それを直ちに、単行本として刊行したということは 、やはり、《 転向 》とか《変節 》と受け取られ、批判されたとしても、不思議ではない。江藤淳の「小林秀雄」論は、それだけのインパクトを与えたのである。

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(1)。 江藤淳が「小林秀雄」論を書き始めた頃、小林秀雄は、《戦争協力者》的な扱いを受けて、《 戦争責任 》を追求される側にあった。小林秀雄の戦時中の発言や行動を見るまでもなく、それは当然のことだろう。要するに、この頃、小林秀雄を擁護する人は、ほぼ皆無だった。江藤淳ですら 、その直前まで 、激しく小林秀雄を批判していたのである。江藤淳は、『作家は行動する』という言語論、文体論の書で 、同世代の大江健三郎等を高く評価する一方で、小林秀雄を、守旧派の古い文体の持

⬛️江藤淳小林秀雄」論を読みながら考えたこと(1)。

江藤淳が「小林秀雄」論を書き始めた頃、小林秀雄は、《戦争協力者》的な扱いを受けて、《 戦争責任 》を追求される側にあった。小林秀雄の戦時中の発言や行動を見るまでもなく、それは当然のことだろう。要するに、この頃、小林秀雄を擁護する人は、ほぼ皆無だった。江藤淳ですら 、その直前まで 、激しく小林秀雄を批判していたのである。江藤淳は、『作家は行動する』という言語論、文体論の書で 、同世代の大江健三郎等を高く評価する一方で、小林秀雄を、守旧派の古い文体の持ち主として槍玉にあげていた。しかし、江藤淳の内部に突然の変化が起きた。

《昭和33年の秋に、文体論を書き上げた直後、私は小林秀雄氏に対して不公正な態度をとっているのではないかという疑いに、突然とりつかれた。 》(江藤淳小林秀雄』)

《 そのうちに、小林氏は 、次第に反撥するには親しすぎるイメイジになって行った。小林秀雄の文学観を批判しつくしたいという野望が私になじゃったわけではない。だが、文学観の批判がいったい何であろうか。このように赤裸々な心を開いて私の前に立っている一人の人間の存在の重さにくらべれば。》

■ネットウヨの溜まり場ー《虎ノ門ニュース》が番組打ち切りを発表・・・(笑)だとさ。 残念だな〜。もっと頑張って、もっともっと、恥を晒して欲しかったのに。「 YouTube動画 」業界も、破産寸前のテレビ局の残党が流れ込み、「 YouTube動画 」が通俗化、定番化し、見たくもないクズ番組ばかりになり、寂しくなるねえ。ああ、《虎ノ門ニュース 》の打ち切りの理由ですか。アレでしょうね、アレ。ほら、ツボですよ。金の切れ目が縁の切れ目ってやつでしょうね。 ●●●●●●●● 《 「夕刊フジ」より》 インターネ

ネットウヨの溜まり場ー《虎ノ門ニュース》が番組打ち切りを発表・・・(笑)だとさ。

残念だな〜。もっと頑張って、もっともっと、恥を晒して欲しかったのに。「 YouTube動画 」業界も、破産寸前のテレビ局の残党が流れ込み、「 YouTube動画 」が通俗化、定番化し、見たくもないクズ番組ばかりになり、寂しくなるねえ。ああ、《虎ノ門ニュース 》の打ち切りの理由ですか。アレでしょうね、アレ。ほら、ツボですよ。金の切れ目が縁の切れ目ってやつでしょうね。

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《 「夕刊フジ」より》
インターネット人気番組「真相深入り! 虎ノ門ニュース」が18日の放送で終了することが発表された。
司会の居島一平が7日朝の放送で明らかにした。
理由などの言及はなかった。

極めて残念というしかない。
#虎ノ門ニュース
#18日放送で終了
#7日朝の放送で明らかに

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■「 YouTube動画 」を配信しました。ーテーマ《 習近平と安倍晋三》です。 https://youtu.be/6pVDKGMKriA ーーーーーーーーーー いつも、ご覧頂きまして、ありがとうございます。 哲学者・文藝評論家=山崎行太郎の反論壇時評チャンネルです。 『《胡錦濤》退場の真相。習近平と安倍晋三の類似性《習近平》も意外に《小心者》ではないのか』を配信しています。是非、ご覧下さい。 ⇩★⇩★⇩★⇩★⇩★⇩★⇩ https://youtu.be/6pVDKGMKriA

■「 YouTube動画 」を配信しました。ーテーマ《 習近平安倍晋三》です。

https://youtu.be/6pVDKGMKriA

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いつも、ご覧頂きまして、ありがとうございます。

哲学者・文藝評論家=山崎行太郎の反論壇時評チャンネルです。

『《胡錦濤》退場の真相。習近平安倍晋三の類似性《習近平》も意外に《小心者》ではないのか』を配信しています。是非、ご覧下さい。
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⬛️山川方夫とサルトル。 (以下は、近刊予定の『山川方夫伝ーあるマイナーポエットの生涯』の序論です。) 私は、高校時代に、それとは知らずに、《山川方夫 》を読んだ。『文学界』という文芸雑誌に掲載された「煙突」という短編小説であった。戦時下、「病弱で孤独な少年」が、古い校舎の屋上で、一人で、壁に向かってキャッチボールをしていると、もう一人のニヒルな少年がやってきて、煙突に登り始める。飛び降り自殺でもするのかと思っていると・・・という小説だった。私は 、元来、読書嫌いの子供だったが、その頃、高校二年か三年の

⬛️山川方夫サルトル
(以下は、近刊予定の『山川方夫伝ーあるマイナーポエットの生涯』の序論です。)

私は、高校時代に、それとは知らずに、《山川方夫 》を読んだ。『文学界』という文芸雑誌に掲載された「煙突」という短編小説であった。戦時下、「病弱で孤独な少年」が、古い校舎の屋上で、一人で、壁に向かってキャッチボールをしていると、もう一人のニヒルな少年がやってきて、煙突に登り始める。飛び降り自殺でもするのかと思っていると・・・という小説だった。私は 、元来、読書嫌いの子供だったが、その頃、高校二年か三年の頃、「生物」の小野重朗という先生に教えられて、突然、大江健三郎を読むようになり、それを契機に急速に「現代文学というもの」に目覚め、しかも文芸雑誌というものがあることを知り、いっぱしの文学青年気取りで、それらを、手当り次第に読むようになっていたのである。そして 山川方夫に出会ったのだった。不思議な巡り合わせだった。《山川方夫》は、後に私が深刻な影響を受けることになる《文芸評論家=江藤淳》を発掘し、文壇に送り出した『三田文学』の編集長だった・・・という面白い人物である。
ところで、小野重朗先生は、高校で、「生物」を教えながら、一方で 、柳田国男の流れを受け継いだ「民俗学」の研究者だった。南九州の『農耕儀礼の研究』とかで、私が高校三年の時に「柳田国男賞」を受賞した。博学多識の小野先生の授業は面白かった。特に、エンドウマメの交配を延々と、根気よく続け、メンデルの法則を発見したメンデルの話には強い感銘を受け、影響を受けた。私は、メンデルが、『メンデルの法則』を発見したことに感銘を受けたわけではない。私が、感銘を受けたのは、メンデルが、エンドウマメの交配、受粉を延々と繰り返し続けたという部分だった。無償の行為・・・。
さて、私は、《無償の行為 》として、慶應大学文学部に入学。その直後、山川方夫の死を知った。山川方夫が、どういう作家か、まだよく知らなかった。私が、どういう経路で、《山川方夫の死》を知ったのか、正確には覚えていない。その頃、『三田文学』は休刊中だったが、遠藤周作編集長のもとに、新しく復刊されたのだが、私は、その復刊号で知ったのかもしれない。山川方夫は、『三田文学』の歴史に燦然と輝く伝説的な名編集長だった。江藤淳山川方夫の深い交遊関係も、その時、はじめて知ったのかもしれない。同じ頃、もう一つの大きな事件があった。サルトルの来日である。慶應義塾大学と京都の出版社「人文書院 」が、招待したらしい。だから、慶応で、《 サルトル講演会 》があった。すでに、レヴィ・ストロースやミチェル・フーコーロラン・バルトなどが登場して、本国フランスでは、《サルトルの時代》ではなくなりつつあったが、戦後日本に沸き起こった《 サルトル・ブーム 》が 、完全に消滅した訳でもなかったから、サルトル講演会には希望者が殺到し、会場は満員だったらしい。私も、「塾生枠 」で申し込んだが、抽選に漏れて会場に入ることは出来なかった。新聞などで知るしかなかった。
さて、山川方夫は、慶應仏文科出身で、サルトル研究を卒論にして卒業している。当時の慶應仏文科には、 サルトルの代表作『嘔吐』を翻訳した白井浩司が助教授をしており、サルトル研究のメッカのような様相を呈していた。山川方夫の小説や編集作業は、明らかにサルトルの影響を強く受けている。そこで、私が記憶している印象的な話がある。それは、山川方夫が、『三田文学』編集長の時代に、遠藤周作の小説を 認めず、『三田文学』に載せなかったという話だ。したがって、遠藤周作は、『近代文学』に発表した『白い人』で、芥川賞を受賞して、作家デビューしている。山川方夫が、遠藤周作の小説を認めなかったのは、何故なのか。私は、そこには、サルトルの「実存主義」の影響があると思う。では、そのサルトルの「 実存主義」とは何か。