山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

2022-11-13から1日間の記事一覧

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(3)。 江藤淳は、いわゆる《 60年安保 》を、どのように受け止め、どのように対応し、そして、どのように総括してきたのだろうか。江藤淳は、最初から《60年安保 》闘争に批判的だったわけではない。江藤淳もまた、闘争に参加していたのである。前にも述べたように、《 若い日本の会 》は、安保反対の運動を目指す組織だったのだ。しかも江藤淳は、その中心メンバーだった、メンバーの一人一人は 、それぞれ、独自の思想や思惑を持っていただろうが、少なくとも安保反対では一致して

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(3)。江藤淳は、いわゆる《 60年安保 》を、どのように受け止め、どのように対応し、そして、どのように総括してきたのだろうか。江藤淳は、最初から《60年安保 》闘争に批判的だったわけではない。江藤淳もま…

■以下は、在野の民族派右翼の畏友=松本洋三氏のFacebookからのシェアです。鋭い分析です。《 自由民主党はアメリカ合衆国日本総督府だった》と。江藤淳を思い出しました。我が師=江藤淳は米国留学後、プリンストン大学に教員として採用されていましたが、このままではダメになると帰国を決断、帰国後は、《反米愛国 》となりました。孤立を恐れず、《親米保守派(自民党)》とも決別。孤立と孤独の中で 戦死しました。ご参考までに。 ーーーーーーーーーー 自民党末期 後世、今を、自末(自民党末期)と称するか日末(日本末期)と

■以下は、在野の民族派右翼の畏友=松本洋三氏のFacebookからのシェアです。鋭い分析です。《 自由民主党はアメリカ合衆国日本総督府だった》と。江藤淳を思い出しました。我が師=江藤淳は米国留学後、プリンストン大学に教員として採用されていましたが、こ…

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(2)。 ところで、江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代背景についても、少し考えてみたい。江藤淳も人の子である。時代から超越していたわけではない。江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代は、いわゆる《60年安保 》の政治的時代であった。江藤淳が、「聲」第6号に 、「小林秀雄」論を連載を始めたのは、1960年1月である。1961年、「聲」休刊のため、続きを、『文学界』に移して、5月号から12月号まで連載する。そして、11月には、講談社から単行本『小林秀雄』を

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(2)。ところで、江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代背景についても、少し考えてみたい。江藤淳も人の子である。時代から超越していたわけではない。江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代は、いわゆる《…

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(1)。 江藤淳が「小林秀雄」論を書き始めた頃、小林秀雄は、《戦争協力者》的な扱いを受けて、《 戦争責任 》を追求される側にあった。小林秀雄の戦時中の発言や行動を見るまでもなく、それは当然のことだろう。要するに、この頃、小林秀雄を擁護する人は、ほぼ皆無だった。江藤淳ですら 、その直前まで 、激しく小林秀雄を批判していたのである。江藤淳は、『作家は行動する』という言語論、文体論の書で 、同世代の大江健三郎等を高く評価する一方で、小林秀雄を、守旧派の古い文体の持

⬛️江藤淳「小林秀雄」論を読みながら考えたこと(1)。江藤淳が「小林秀雄」論を書き始めた頃、小林秀雄は、《戦争協力者》的な扱いを受けて、《 戦争責任 》を追求される側にあった。小林秀雄の戦時中の発言や行動を見るまでもなく、それは当然のことだろう。…