ところで、江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代背景についても、少し考えてみたい。江藤淳も人の子である。時代から超越していたわけではない。江藤淳が「小林秀雄」論を書いていた時代は、いわゆる《60年安保 》の政治的時代であった。江藤淳が、「聲」第6号に 、「小林秀雄」論を連載を始めたのは、1960年1月である。1961年、「聲」休刊のため、続きを、『文学界』に移して、5月号から12月号まで連載する。そして、11月には、講談社から単行本『小林秀雄』を刊行している。江藤淳は、その後、翌年の1962年8月には、ロックフェラー財団研究員として渡米している。これは、要するに、「小林秀雄」論が、安保騒動の渦中で書かれたことを意味している。戦時中の小林秀雄の緊張感が、そのまま江藤淳の「小林秀雄」論の文体の緊張感と重なるのは 、そのためではないか、とも思われる。
安保騒動の渦中で、江藤淳にも大きな思想的転換が起きていた。「転向」とか「変節」とか言われ 、厳しく糾弾されることになる思想的転換である。江藤淳は、「小林秀雄」論を書くことによって、極端な言い方をすれば、「左翼」から「右翼」へ、あるいは「革新」から「保守」へ、《転向》したかのように見えたのである。そのように見えたとしても無理はないかもしれない。1960年5月に、いわゆる《 60年安保》と言われる《 安保騒動 》があり、その渦中で、江藤淳は、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、開高健等とともに、「若い日本の会」を結成し、その主要メンバーとして、安保反対の立場から、抗議集会を開くなど、かなり積極的に反政府的な政治行動に参加していたからである。ちなみに 、この反政府的な政治行動には 、多くの学生や知識人らも参加していたが、その中でも、国会周辺を埋めつくした群衆の中に 、つまり、もっと過激な反政府政治運動グループの中に、吉本隆明や柄谷行人や西部邁 等もいたらしい。これだけ多種多様な、多くの青年、学生、学者、知識人、労働者・・・等が参加した反政府運動は、珍しい。私は、《 60年安保 》闘争が、全国民的に盛り上がったのは、この政治闘争に、敗戦後の日本の独立、日本の主権回復という問題がからんでいたからではないか、と思う。サンフランシスコ平和条約で、日本は、米軍占領体制を脱し、形式的には、独立と主権を回復したとはいえ、まだ、実質的には占領体制は続いていた。江藤淳のような保守的な青年でさえ、占領体制を固定化、永続化しようとする《 日米安保条約》に反対して立ち上うがったのであろう。
そういう時代に、いち早く、その反政府的な政治運動から抜け出したのが江藤淳であった。「夏目漱石」論でデビューした江藤淳が、「小林秀雄」論を書き 、それを直ちに、単行本として刊行したということは 、やはり、《 転向 》とか《変節 》と受け取られ、批判されたとしても、不思議ではない。江藤淳の「小林秀雄」論は、それだけのインパクトを与えたのである。