江藤淳が「小林秀雄」論を書き始めた頃、小林秀雄は、《戦争協力者》的な扱いを受けて、《 戦争責任 》を追求される側にあった。小林秀雄の戦時中の発言や行動を見るまでもなく、それは当然のことだろう。要するに、この頃、小林秀雄を擁護する人は、ほぼ皆無だった。江藤淳ですら 、その直前まで 、激しく小林秀雄を批判していたのである。江藤淳は、『作家は行動する』という言語論、文体論の書で 、同世代の大江健三郎等を高く評価する一方で、小林秀雄を、守旧派の古い文体の持ち主として槍玉にあげていた。しかし、江藤淳の内部に突然の変化が起きた。
《昭和33年の秋に、文体論を書き上げた直後、私は小林秀雄氏に対して不公正な態度をとっているのではないかという疑いに、突然とりつかれた。 》(江藤淳『小林秀雄』)
《 そのうちに、小林氏は 、次第に反撥するには親しすぎるイメイジになって行った。小林秀雄の文学観を批判しつくしたいという野望が私になじゃったわけではない。だが、文学観の批判がいったい何であろうか。このように赤裸々な心を開いて私の前に立っている一人の人間の存在の重さにくらべれば。》