■『ソクラテスの弁明 』を読みながら、《哲学》と《哲学研究 》の差異について考える(2)
何故、ソクラテスは死刑判決を受け、実際に死刑になったのか。それは、ソクラテスが、《哲学 》を実践し、実行したからだ。ソクラテスも、《哲学 》とはいっても、《哲学研究》にとどまっていたら、逮捕されることも、死刑判決を受けることもなかっただろう。では、《哲学 》と《 哲学研究 》は違うのか。違うとすれば、どこが、どう違うのか。この問題を考える時は、《文学 》と《 文学研究 》を比喩として参考材料にしてみれば、私のような、文学通(笑)の人間には、わかりやすいかもしれない。《哲学》と《哲学研究 》の差異より、《文学 》と《 文学研究 》の差異の方が、わかりやすいからだ。言うまでもなく、文学研究は、文学ではない。文学部の大学教授たちの大部分は、《文学》はやっていない。文学を材料にして、研究、分析しているだけだ。それを《文学》だ、と勘違いしている大学教授たちも少なくない。私は、小林秀雄や江藤淳、あるいは吉本隆明や柄谷行人を考える時、いつもこの問題考えている。小林秀雄や江藤淳の文学は、いわゆる《文学研究 》ではない。あくまでも《文学》である。反対に、文学研究というと、国文学研究や近代文学研究がすぐに思いつくが、それだけではなく、それに加えて、フランス文学やドイツ文学、ロシア文学・・・、その他の外国文学研究も思いつく。要するに、《文学者》より《文学研究者》の方が、はるかに多いし、世の中に蔓延している。意外に、文学を実践し、実行している《文学者》は少ない。それほど多くない。同じことが、《哲学》や《哲学研究》にも言えるのではないか。現代でも、《哲学研究者》は、大学を中心にたくさんいるが、いわゆる《哲学者》は少ないはずだ。ソクラテスの時代も、そうだったのではないか。ソクラテスは、《知恵》のある《知者》と呼ばれることに反対した。『ソクラテスの弁明』には、「デルフォイの神託」の場面がある。デルフォイの神のお告げによれば、《この世で、一番の知者はソクラテスだ》というのだ。それに同意出来ないソクラテスは、世間で《知者》と呼ばれている政治家や芸術家や職人などを訪ね、質問を重ねながら《知者》であるかどうかを吟味していく。なるほど、彼らは、多くのことを知っている。しかし、もっとも肝心な、もっとも大事なことを知らない、ということにソクラテスは気づいた。しかも彼等は、そのことに気づいてもいない。自分が、知らないことを知らない。