私と三田文学の関わりは、それからしばらくたって 、高橋昌男編集長のもとで三田文学が 復刊された時だった。その頃、三田文学は長く休刊状態だった。それを心配した大学当局(石川忠雄塾長?.)が動いて復刊の動きが始まったらしい。それまでは、学生内部に復刊の熱意が感じられない限り、復刊しても無駄だろうというのが大勢だったらしい。ともあれ、経緯はどうであれ、復刊がきまり、動き出したことを知った私は、すぐに行動した。私は、新・編集長に決まった作家の高橋昌男さんの名前は知っていたが、面識はなかった。私はまず編集部を尋ねることにした。編集部は 大学構内でも大きなビルでもなく、三田の商店街の一郭にある空き地にあり、編集部の建て物は工事現場の掘っ立て小屋のようなものだった。そこに、編集長の高橋昌男さんと編集助手の杉江さんという女性とがいた。二人とも、予想外に、歓迎してくれた。これが、私と三田文学の最初の出会いである。私は、この日、『三島由紀夫論』を書く約束をし、《出来たら、すぐ見せてくれ 》という編集長・高橋昌男さんの声に送られて、編集部を後にしたのだった。私は、江藤淳のように三田文学からデビューしたかった。江藤淳の『夏目漱石』論を念頭に『 三島由紀夫論』と言ったのである。私にしては、かなり大胆な《 勇気ある行動 》だった。岳真也さんとの交遊の中で、私にも、こういう《勇気ある行動 》が出来るようになっていたのだろう。慶應文学部に入学以来の《夢》が、かなりの回り道をしたが、実現した瞬間であった。以後、私は、三田文学に、毎号のように、『 小林秀雄と理論物理学』や『ベルグソンのパラドクス』『 』などを掲載してもらった。私は、普通の文学青年が書かないような難解そうなテーマを敢えて選んで、書いた。理論物理学やベルグソン、マルクスなど、哲学研究の過程で学んだテーマだった。三田文学に発表したこれらの私の初期評論を、一冊の本にしてくれたのが岳真也だった。『小林秀雄とベルグソン 』(彩流社)がそれだ。この本は、この種の本にしては、よく売れたらしく増補版まで出た。しかも 、話題にもなったらしく 、インタビューの申し込みまであった。《 小林秀雄 》は誰でも知っているが、《 ベルグソン 》や《 理論物理学 》《マルクス 》は、新鮮だったらしい。驚いたのは、柄谷行人が、私が三田文学に発表した『ベルグソンのパラドクス』を、『 思潮』という雑誌の座談会で、取り上げて、褒めてくれたことだった。私は知らなかったが、新宿の居酒屋で、始発の電車を待っていた時、文芸評論家の井口時男に教えられた。《柄谷さんが山崎さんを褒めているよ。》と.