山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️『江藤淳とその時代』7月号ー《立国は私なり、公にあらざるなり》(福澤諭吉)について 。⑴ もう何回も書いたが、アメリカ留学から帰国後の江藤淳が、主に取り組んだのは、『アメリカと私』という留学体験記を別にすれば、日米関係論でも反米愛国主義的な政治言論でもなく、もっぱら 、《私とは何か》《父親とは何か》《 母親と何はか》《家族とは何か》・・・というような、きわめて個人的な、反社会的な、要するに、文学的、実存的な問題だった。意外に思われるかもしれないが、そんなことはない。江藤淳は、政治評論家でも社会問題

⬛️『江藤淳とその時代』7月号ー《立国は私なり、公にあらざるなり》(福澤諭吉)について 。⑴

もう何回も書いたが、アメリカ留学から帰国後の江藤淳が、主に取り組んだのは、『アメリカと私』という留学体験記を別にすれば、日米関係論でも反米愛国主義的な政治言論でもなく、もっぱら 、《私とは何か》《父親とは何か》《 母親と何はか》《家族とは何か》・・・というような、きわめて個人的な、反社会的な、要するに、文学的、実存的な問題だった。意外に思われるかもしれないが、そんなことはない。江藤淳は、政治評論家でも社会問題をあつかう社会問題評論家でもなく、あくまでも、一人の《 文学者》であり、《 文芸評論家》だった。とすれば、江藤淳はが、自らの存在根拠を問う文学作品に熱中するのは 、当然と言えば当然、あまりにも当然すぎる話なのだ。そのきわめつけが長編『一族再会』という作品である。江藤淳は、帰国後、『 季刊藝術』という同人雑誌を、美術評論家高階秀爾や、音楽評論家の遠山一行らと創刊し、そこを文学活動の拠点にしようとしていた。出版社や新聞社などからの注文原稿を、こつこつと書き続けるという文筆業的職業に、限界と不満を感じはじめていたのかもしれない 。いずれにしろ、その
『 季刊藝術』第一号から、『一族再会』の連載を開始する。ちなみに編集事務を担当したのが 、後に、小説『プレオー8の夜明け』で芥川勝利を受賞する古山高麗雄であった。したがって 、『一族再会』は、自分が書きたいと思っていたものを、誰に気兼ねすることなく、自由気ままに書いた、いわゆる自発的、内発的な情熱に基づいて書いた文学作品である。おそらく、江藤淳は、『一族再会』を書くために、『 季刊藝術』を創刊したのであろうと思われる。『 一族再会』は、4歳の時、死別した《 母親》の話から始まっている。

《 私が母を亡くしたのは、四歳半のときである。つまりそれが、私が世界を喪失しはじめた最初のきっかけである。正確にいえば、私がうまれたときすでに、私の家族はひとつの大きな喪失、あるいは不在の影 を受けていたのかも知れない。父はまだ十一歳のときに祖父を亡くしていたからである。》(『 一族再会』)

言うまでもなく、この《私が母を亡くしたのは、四歳半のときである。 》という話は、極めて個人的な話にすぎないい。おそらく、一部の江藤淳ファンyや江藤淳の愛読書を除く一般の人々にとっては、《 ああ、そうですか、それはお気の毒にー》という程度の話で終わる個人的な体験にすぎない。しかし、問題は、それが、江藤淳自身にとっては、どういう意味を持っていたかである。他人には、どうでもいい話でも、本人にとっては、どうでもいい話ではないのだ。まさに、そこに《存在問題 》が、言い換えると、文学の始原とも言うべき《 実存的問題 》が出てくるのだ。