私が、山川方夫に強い関心をもつようになったのは、江藤淳を読むようになってからだった。江藤淳は、日比谷高校時代の友人安藤元雄が主宰する同人雑誌『PURETE』に発表した「マンスフィールド覚書」を読んだ『三田文学』編集長の山川方夫から、人伝に、声をかけられた。一回目はことわったが、再度、原稿を見せて欲しいという誘いがあったため、それには応じることにした。江藤淳は、『三田文学』に対してそれまであまり関心がなかったが、とりあえず銀座にあった『三田文学』編集室を訪ねてみることにした。それが、江藤淳と山川方夫の《運命的交流 》の始まりだった。
《 私は昨日のことのように覚えている。自分がまだ慶應義塾英文科の学生で、将来について何の計画も持てぬままに、その頃銀座の並木通りにあった「三田文学」編集室を訪れた時のことを。そこには私より三つか四つ年長の青年がいた。それが山川と私の最初の出逢いであった。 》(「夏目漱石」新版への序)
江藤淳は、この時の《 運命的 交流》のはじまりについて、何回も書いている。《文芸評論家=江藤淳 》の誕生秘話と言っていい。秘話を知って以来、《 山川方夫》という編集者であり、作家でもあった人物に、興味を持つようになった。《文芸評論家=江藤淳 》を発見し、発掘した人物。しかも、自分のことは忘れたかのように 、精力的に 文壇デビューを後押し、見まもり続けた人物。江藤淳も、山川方夫について、次のように書いている。
《それにしても、何故あのとき山川が、私の最初の仕事にあれほど肩を入れてくれたのか、いまだに私にはよくわからない。それが友情というものなら、友情とは怖いほど無私になり得るものである。》(同上)
友情から無私へ。江藤淳が、山川方夫の友情を、《無私》という言葉で表現しようとしたことは、重要である。《無私》という言葉から、私は、すぐに小林秀雄の《無私の精神》を連想するが、《無私》とは、私的に言えば、イデオロギー的なではなく、存在論的ということである。