山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️ 江藤淳が、《父親》や《 母親 》、あるいは《 家族》について語る言葉には、奇妙な魅力と危険な魔力がひそんでいるようにみえる。中には、そういう言葉を、生理的に毛嫌いする人もいるだろうが、それは、あまりにも人間存在の本質をついているためではないのか。少なくとも、私は、江藤淳の、こういう《身内》に関する言葉を、自慢話や愚痴や泣き言の一種としてでなく、貴重な《 文学の言葉》として聞いた。江藤淳は言う。 《 文学が「 正義」を語り得ると錯覚したとき、作家は盲目になった。それがいわゆる「 戦後文学」のおかした

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江藤淳が、《父親》や《 母親 》、あるいは《 家族》について語る言葉には、奇妙な魅力と危険な魔力がひそんでいるようにみえる。中には、そういう言葉を、生理的に毛嫌いする人もいるだろうが、それは、あまりにも人間存在の本質をついているためではないのか。少なくとも、私は、江藤淳の、こういう《身内》に関する言葉を、自慢話や愚痴や泣き言の一種としてでなく、貴重な《 文学の言葉》として聞いた。江藤淳は言う。

《 文学が「 正義」を語り得ると錯覚したとき、作家は盲目になった。それがいわゆる「 戦後文学」のおかした誤りである。(『 戦後と私』)


私は、ここで  、《  それがいわゆる「 戦後文学」のおかした誤りである》どうかを議論するつもりはない。それいとよりも 、江藤淳の言葉は、もっと普遍的なひろがりを持つ言葉のようにみえる。ここには、江藤淳の志向する文学原論、ないし文学本質論とでも言うべきものがある。続けて
江藤淳は、言っている。


《作家は恐れずに私情を語り得なくなった。その上に世界の滅亡について語ることが家庭の崩壊ついて語ることより「本質的 」だという通念が根をはって、ジャーナリスムは「 戦後派作家」を甘やかした。しかし「世界」とはなんだろうか。それは作家の内にあるのか外にあるのか。またたとえば「 家庭」とは一種の「世界 」であり、そこで人は生き死にしないだろうか。》(同上)


これは重要な言葉である。こういう言葉を発した人は、私の知る限り 、江藤淳以外にない。「私情 」「 家庭」「 世界」・・・。《  またたとえば「 家庭」とは一種の「世界 」であり、そこで人は生き死にしないだろうか》・・・。少なくとも、私は、こういう言葉や文章を聞いたことも読んだこともない。この異様な輝きを持つ言葉で、江藤淳は、何を言おうとしたのだろうか。江藤淳は、《父親》や《  母親》について語ることが《私情  》であることを知らないわけではない。しかも、《私情  》を語ることが、日常生活で、しばしば嫌悪、排斥されるものだということを。いや、それでも、それを充分に知った上で、あえて、言っているのだ。


《 それは私情であって正義でなくてもよい。しかしいったいこの世の中に私情以上に強烈な感情があるか。》(同上)


江藤淳は、さらに次のような言葉も付け加える。


《そしていったい文学とはなんだろうか。それは私情を率直に語ることにはじまるものか、それともそれを偽って「 正義」  につくことだろうか。九十九人が「戦後 」を謳歌しても、私にあの悲しみが深くそれがもっとも強烈な現実である以上私はそれを語る以外にない。》(同上)


《  私情》を語り、《私情  》を描き、《 私情 》を書き続け、それに、作家生命を賭けてきた、あるいは人生を賭けてきたような、いわゆる《私小説作家 》たちも、同じような主張と心情をもっていただろうが、江藤淳ほど自信と確信をもって断言した人はいない。江藤淳をもって、《私情の文学 》とでも言うべきものが誕生する。





もう何回も書いたが、アメリカ留学から帰国後の江藤淳が、主に取り組んだのは、『アメリカと私』という留学体験記を別にすれば、日米関係論でも反米愛国主義的な政治言論でもなく、もっぱら 、《私とは何か》《父親とは何か》《  母親と何はか》《家族とは何か》・・・というような、きわめて個人的な、反社会的な、要するに、文学的、実存的な問題だった。意外に思われるかもしれないが、江藤淳においては、そんなことはない。江藤淳は、政治評論家でも社会問題をあつかう社会問題評論家でもなかったが、国家論や社会評論であろうとも、それなしにはありえないような原理的な問題だった。
江藤淳は、政治評論や憲法論、戦後のGHQによる検閲問題など、多種多様な仕事をしているが、江藤淳自身は、あくまでも、一人の《  文学者》であり、《 文芸評論家》だった。とすれば、江藤淳はが、自らの存在根拠を問う《私小説的 》な文学作品に熱中するのは 、当然と言えば当然、あまりにも当然すぎる話なのだ。それは、《大問題》から逃げて、個人的な、自閉症的な《  小問題》に閉じこもることではない。そのきわめつけが長編『一族再会』という作品であはなかろうか。江藤淳は、アメリカ留学から帰国後、『 季刊藝術』という同人雑誌を、美術評論家高階秀爾や、音楽評論家の遠山一行らと創刊し、そこを文学活動の拠点にしようとしていた。出版社や新聞社などからの注文原稿を、こつこつと書き続けるだけという文筆業的職業に、限界と不満を感じはじめていたのかもしれない 。いずれにしろ、その『 季刊藝術』第一号から、『一族再会』の連載を開始する。ちなみに編集事務を担当したのが 、後に、小説『プレオー8の夜明け』で芥川勝利を受賞する古山高麗雄であった。したがって 、『一族再会』は、自分が書きたいと思っていたものを、誰に気兼ねすることなく、自由気ままに書いた、いわゆる自発的、内発的な情熱に基づいて書いた文学作品である。おそらく、江藤淳は、『一族再会』を書くために、『 季刊藝術』を創刊したのであろうと思われる。『 一族再会』は、4歳の時、死別した《  母親》の話から始まっている。


《 私が母を亡くしたのは、四歳半のときである。つまりそれが、私が世界を喪失しはじめた最初のきっかけである。正確にいえば、私が生まれたときすでに、私の家族はひとつの大きな喪失、あるいは不在の影 を受けていたのかも知れない。父はまだ十一歳のときに祖父を亡くしていたからである。》(『 一族再会』)

江藤淳は、ここで、《私が世界を喪失しはじめた・・・  》、いわゆる江藤淳という人間存在の《存在の原点  》について書こうとしている。江藤淳が、『 一族再会』で、何を書こうとし、何を探究しようとしていたかは、ほぼ明らかであろう。言うまでもなく、この《私が母を亡くしたのは、四歳半のときである。 》という話は、極めて個人的な話にすぎないい。おそらく、一部の江藤淳ファンyや江藤淳の愛読書を除く一般の人々にとっては、《  ああ、そうですか、それはお気の毒にー》という程度の話で終わる個人的な体験にすぎない。しかし、問題は、それが、江藤淳自身にとっては、どういう意味を持っていたかである。他人には、どうでもいい話でも、本人にとっては、どうでもいい話ではないのだ。まさに、そこに《存在問題  》が、言い換えると、文学の始原とも言うべき《 実存的問題 》が出てくるのだ。




江藤淳が『一族再会』で、《母》の次に書いたのは《祖母  》である。私のような平凡な読者からみると、この《祖母 》の文章がもっとも充実しているようにみえる。《祖母》のところに、印象的な文章がある。


《 敗戦後間もないころ 

、私は癇癪をおこして祖母に日本刀をふりあげたことがある。美術品の指定をうけたおかげで占領軍から。没収されずに済んだ日本刀を引きぬいて、私は、「切ってやる、それに直れ」と怒鳴った。》(『一族再会』)


江藤淳は、その時、まだ「ものごころ」のつかぬ幼児だったわけではない。既に旧制中学の学生になるかならぬかの頃である。とすれば、これは、ただ事ではない。江藤淳自身の内部に、血のつながった肉親同士の制御出来ない激情の発作のようなものがあったのだろう。


《しかし祖母が凄い目をして、「切れるものなら切って見なさいッ」 と叫んだ瞬間に、私は、「よし、それなら切ってやる」と本気で思った。自分は狂いはじめているのかも知れないと思ったが、 》


江藤淳は、若くして亡くなった母親に代わって、育ててくれた祖母に、日本刀を振り上げるほどの凶暴な激情家だったが、同時にその凶暴で、過剰な激情を抑制し、制御出来るだけの平衡感覚の持ち主でもあった。おそらくその二重性が、江藤淳のわかりにくいところだろう。江藤淳は、しばしば、政治思想的には《 保守》《 右翼》と思われているが、いわゆる平凡、凡庸な《  保守》でも《 右翼 》でもなかった。言うならば 、左翼過激派以上に過激な精神と思考の持ち主であった。そこらあたりを理解しないと、吉本隆明柄谷行人あたりとの親密な交流は理解できないだろう。私は、一度だけ、赤軍派のリーダーとして知られる《 塩見孝也 》と某雑誌の企画で対談したことがあるが、その対談で文学の話になった時、一番先に名前だ出てきたのが《 江藤淳 》だった。私は、その時、《左翼過激派  》と《 右翼過激派》とは、その精神構造が似ているのだろうと思った。