山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■l大江健三郎と私、あるいは、私の個人的な大江健三郎体験 。 某雑誌から、大江健三郎について原稿依頼が来たので、以下、メモ的に書く。忘れかけていたが、大江健三郎が亡くなったのは、今年の三月だったらしい。私は、去年のことのように錯覚していた。随分、前のことのように記憶していたのだ。それほど印象が薄い。何故だろうか。大江健三郎のことなら、私は、なんでも知っているはずだった。よく考えて見ると、思い当たるふしがある。文芸誌などが特集した大江健三郎の追悼号が、私の想像を絶するほどに貧弱で、寂しかったからだ。いやし

■l大江健三郎と私、あるいは、私の個人的な大江健三郎体験 。

某雑誌から、大江健三郎について原稿依頼が来たので、以下、メモ的に書く。忘れかけていたが、大江健三郎が亡くなったのは、今年の三月だったらしい。私は、去年のことのように錯覚していた。随分、前のことのように記憶していたのだ。それほど印象が薄い。何故だろうか。大江健三郎のことなら、私は、なんでも知っているはずだった。よく考えて見ると、思い当たるふしがある。文芸誌などが特集した大江健三郎の追悼号が、私の想像を絶するほどに貧弱で、寂しかったからだ。いやしくも 大江健三郎が亡くなったのだ。もっと派手に 、もっと情熱的に、もっと印象的に、それぞれの思いを、語ってもいいはずだし、書いてもいいがずだと思ったものだ。私が読んだ追悼文は、ほぼ例外なく、当たり障りのない、いわゆる、毒にも薬にもならないような、社交辞令的駄文ばかりだったからだ。大江健三郎は。晩年に至る約10年近くを裁判闘争に従事していた。いわゆる『 大江=岩波裁判』、ないしは『 沖縄集団自決裁判』 である。大江健三郎を苦しめたこの裁判闘争に触れた追悼文は、ごくごく少なかった。私の知り得た限り、わずかに蓮実重彦が、チラッと触れた程度だったような気がする。蓮実重彦は、そこで、大江健三郎という作家は、最後まで闘っていたというようなことを書いていた。その通りだった。大江健三郎は、普通の、凡庸な作家ではなかった。
私は、高校時代に、はじめて大江健三郎の小説を読んだ。生まれてはじめて《小説》というものに感動した。ああ、これが小説というものか、 と。そこで、私の進路は決まった。両親や兄に相談すると、お前の自由にしていいよ、ということだったので、《 文学部 》への進学を決めた。そして、その道を、紆余曲折はあったが、私は、現在まで貫いてきた。「 貫いてきた」というと言うと立派なことのように聞こえるかもしれないが、そうではない。ただ単に、周囲に迷惑や心配をかけ続けただけだった す親不孝の最たるものだった。べては、大江健三郎のせいだった。大江健三郎によって、私は、文学や学問というものの開眼した同時に、猛烈に本を読むようになった。本格的に受験勉強をしなければならない時期だったが、私は、受験勉強そっちのけで、大江健三郎の小説を中心に、本を読みあさった。不思議なことに、私は、生来、読書というものが嫌いであった。本を読むことには、何か高級な、知的な 、優等生の匂いがする。私はその匂いが嫌いだった。私は、漠然と、そこに《欺瞞的》なものを感じていたのかもしれない。ところで、この《欺瞞的 》いう言葉も大江健三郎に教わっった言葉である 。 大江健三郎に教わった言葉は少なくない。《自己欺瞞 》とか《実存》とか《 想像力 》《恥辱 》《 壁 》・・・。私は、大江健三郎の小説やエッセイを読むことで、これらの言葉を知った。私は、読書も勉強も嫌いだったが、《考える》ことは好きだった。