山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■山川方夫と江藤淳とサルトル。 私が、20年ぐらい前に、文芸雑誌『すばる』の山川方夫特集号に発表した『 遠い青空ー山川方夫の生涯』という長編評論が、『維新と興亜』編集長・坪内隆彦氏の好意で、『 山川方夫伝』というタイトルで一冊の本になることになった。もうかなり前にゲラは出来あがっていたのだが、私の優柔不断から、延び延びになっていたもので、それがいよいよ一冊の本として出版されることに・・・。山川方夫というと、もう今は、知らない人も少なくないかもしれないが、『夏目漱石』論でデビューした江藤淳という文芸評論家

山川方夫江藤淳サルトル

私が、20年ぐらい前に、文芸雑誌『すばる』の山川方夫特集号に発表した『 遠い青空ー山川方夫の生涯』という長編評論が、『維新と興亜』編集長・坪内隆彦氏の好意で、『 山川方夫伝』というタイトルで一冊の本になることになった。もうかなり前にゲラは出来あがっていたのだが、私の優柔不断から、延び延びになっていたもので、それがいよいよ一冊の本として出版されることに・・・。山川方夫というと、もう今は、知らない人も少なくないかもしれないが、『夏目漱石』論でデビューした江藤淳という文芸評論家を、無名の大学生の中から発掘し、『夏目漱石』論を書かせたということで有名な、いわゆる『三田文学』編集長として、一世を風靡した人物であり、みずからも、『 日々の死』や『 海岸公園』『 煙突』、さらには『 親しい友人たち』のようなショートショート小説集など、残念ながら、35歳で交通事故で夭折したが、数多くの名作小説を残した作家である。私は、高校時代に《大江健三郎 》という作家と出会うことによって、遅まきながら、文学や読書に目覚めた人間であるが、不思議なことに、その頃、「文学界」という文芸雑誌にに載っていた山川方夫の『 煙突』という小説を読んで、大江健三郎とは違う感動を覚えた作家だった。私は、大江健三郎に夢中になっていたので、山川方夫のことは、忘れていたが、それから一、二年後に、私も慶應の文学部に進学することになり、山川方夫江藤淳の《後輩 》ということになっていた。しかし、入学すると同時に、私は『山川方夫追悼号』を読ませられることになった。その頃、私は大江健三郎の次に江藤淳に興味を持っており、江藤淳の書くものを通して、山川方夫という人物にも関心を持つようになっていた。その頃、フランス実存主義の哲学者、ジャン・ポール・サルトルが、慶應大と京都の人文書院という出版社の招待で、来日するという大事件があった。今では、想像も出来ないかもしれないが、朝日新聞など大手全国紙が連日連夜、サルトル特集を組むなど、《サルトル来日》は、社会的な大事件でもあった。江藤淳は、その前後、アメリカ留学に出発するが、羽田空港で、見送りに来た友人たちを前に、《日本のサルトルになりたい 》と言って旅立ったとかいう話もある。もちろん、私もその《サルトル・ブーム 》の渦中にあった 。サルトルは《実存は本質に先立つ 》という言葉を残している。私は、不遜にも、この言葉が理解できた、と思った。江藤淳山川方夫も、このサルトル哲学をよく理解していた 。大江健三郎山川方夫も、そして江藤淳も、サルトルの影響を濃厚に受けた文学者たちだった。山川方夫は、『三田文学』編集長として、同じく慶應出身であるににもかわらず、遠藤周作の小説原稿を、『三田文学』に掲載しなかったことで知られているが、このサルトル哲学の《実存は本質に先立つ 》からの影響を考えるならば、当然のことだろうと私は思う。山川方夫は、江藤淳を偏重する一方で、遠藤周作を拒絶している。遠藤周作は、『 近代文学』に発表した小説『 白い人』で、芥川賞を受賞して一流作家の仲間入りをするが、山川方夫ふぁ、遠藤周作の原稿を認めなかったとう事実は、山川方夫の《文学観 》が、どういうものであったかを、象徴している。