山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■江藤淳を読む(4)。 江藤淳は、幼年時代の《 母親の死》や晩年の《 妻の死 》だけではなく 、アメリカ留学直後の山川方夫という《 親友の死 》にも、執拗にこだわって、多くの文章を書き残している。これらの親しい人々の《死》が 、江藤淳という文芸評論家の批評的核心部を、存在の深部を形成していることは間違いない。《母親の死 》や《 妻の死 》に執拗にこだわり、その深い哀しみを、文学や批評や思想の領域にまで高め、作品化していった江藤淳の文学的試みを、単に《 女々しい 》とか《 甘ったれ》とか見なし、高見か

江藤淳を読む(4)。

江藤淳は、幼年時代の《 母親の死》や晩年の《 妻の死 》だけではなく 、アメリカ留学直後の山川方夫という《 親友の死 》にも、執拗にこだわって、多くの文章を書き残している。これらの親しい人々の《死》が 、江藤淳という文芸評論家の批評的核心部を、存在の深部を形成していることは間違いない。《母親の死 》や《 妻の死 》に執拗にこだわり、その深い哀しみを、文学や批評や思想の領域にまで高め、作品化していった江藤淳の文学的試みを、単に《 女々しい 》とか《 甘ったれ》とか見なし、高見から、冷笑する人も少なくないが、江藤淳自身が、《女々しい 》《甘ったれ 》た人物だったかどうかということになると、問題はそれほど単純な問題でなく、かなりややこしいことにらなるだろう。私は、最近、数年前のものだが、平山周吉 の『江藤淳は蘇る 』に対する書評を読んだ。それは朝日新聞の書評で、東大法学部教授だという宇野重規が、上から目線で、余裕で書いているようにみえる書評だった。

《 ・・・江藤淳というと、夏目漱石論をライフワークとする文芸評論家であり、米国による占領や憲法問題について問題提起した保守的な論客として知られる。評者の世代にとっては、気づいたときには「偉い人」であり、「文壇の重鎮」というイメージであった。
 が、同時にどこか、ナイーブなところ、さらに言えば、脆弱さを感じさせるところもあった。舌鋒鋭く、論理的な思考の持ち主でありながら、しばしば感情的になり、それを隠そうとしない。その印象は、愛する慶子夫人を追うかのように自裁したことでさらに強められた。
 幼き日に失った母への思いを繰り返し語り、漱石を論じる際にも、兄嫁登世の存在をバランスを失してまで強調する。米国占領によって日本の主体性が奪われ、戦後の言論空間が歪められたことを弾劾する硬派の言論人は、どこかロマンチックと言える、独特な女性への思い入れがあることを予感させた。・・・ 》

私は、宇野重規の文章を読みながら、江藤淳を読むことの《困難 》と江藤淳の文学や思想の《難解さ 》をあらためて実感した。宇野重規江藤淳をまともに読んでもいないし、読もうともしていないことがわかる。むろん、熱心に読むかどうかはその人の自由である。しかし、この程度の理解で、江藤淳のイメージが定着することには賛同出来ない。これでは、江藤淳の文学や思想が、まったく理解されていないに等しいからだ。
では、あらためて、江藤淳とは何か。ある意味では、社会的生活者としての江藤淳が、自分にも他人にも厳しく、日常的な礼儀作法から、出処進退に至るまで、極めて厳格な人物だったことは間違いない。たしかに、内面の奥深くに、ロマン主義的な要素、あるいは心理的脆弱性を秘めていたということも事実かもしれない。しかし、それは宇野重規の言うこととは違う。宇野重規は、明らかに、江藤淳を読もうともせずに、逆に江藤淳という批評家を矮小化し、冷笑しようとしている。江藤淳ロマン主義的な、あるいは心理的脆弱性は、一流の文学者特有のものだった。宇野重規は、文学というものを見下しているとうにみえる。
江藤淳は、徒党を組んで弱いものイジメを繰り返すような卑小な人物ではなかったし、論争や議論においては、必ずといっていいほど、論敵が何者であろうとも、あるいは論敵が何万人であろうとも、勝敗を度外視して、孤軍奮闘し、言うべきことは言うような存在であった。江藤淳の没後、江藤淳を冷笑し愚弄するかのような安易な《江藤淳批判》が横行しているが、生前の江藤淳の目の前で、同じことが言えたのか、と問うてみたい。多くは、下を向いて沈黙するだけだろう。死後だから言えるのである。少なくとも、文学や思想、学問の世界では、そういう逃げ口上は通用しない。多数の資料や文献が残っている。嘘はつけないだろう。きみらこそ《女々しい 》《甘ったれ 》た一般庶民の一人にすぎなかったのではないのか。逆説的に言えば、だからこそ、江藤淳は、《女々しい 》とか《男らしくない 》《甘ったれ 》とか言われるような、微細な、卑小な問題にも、真剣に取り組めたのである。たとえば、アメリカ留学から帰国後に書いた文学評論に『 成熟と喪失』という作品がある。その中心は、小島信夫の『 抱擁家族』を絶賛したものであるが、小島信夫のこの小説は、ホームステイしている若い米国青年に、主人公の大学教授が 、妻を寝取られて、オロオロする話である。江藤淳は、この哀れな戦後の日本人男性の境遇を描いた小説を絶賛したのである 。何故か。その《 哀れな戦後の日本人男性の境遇 》こそ、現代日本の、思想的に洗脳され、去勢され、 奴隷化された日本人そのものだったからだろう。

さて、江藤淳の親友・山川方夫が交通事故で危篤状態におちいったのは、江藤淳アメリカ留学から帰国直後の昭和四十年(一九六五年)二月十九日であった。その頃、住む家の問題から妻の病気、入院など、身辺は多忙をきわめていた。『アメリカと私』の連載を終え、朝日新聞の『 文芸時評』を再開、そして次の連載『 文学史に関するノート』を開始した前後であった。もちろん、山川方夫が交通事故で危篤状態にあることを聞いた江藤淳は、文字通り、取るものもとりあえずに 、入院先の病院へ向かう。

《 二月十九日の午後、事故の知らせを受けたとき、私は当時まだ西銀座の旧Aワンビルにあった文藝春秋にいた。出版企画に相談があり、私は文春の社員の人たちにまじって会議に出ていたのである。そのうちに一人の編集者が、『お宅から電話です』と知らせてくれた。出てみると家内の切迫した声で、「山川さんが自動車事故にあって重態なんですって。今みどりさんからお電話があったの。すぐ行ってあげて下さい。」といった。私は耳をうたがった。不吉な予感がし、一瞬後悔のような感情が胸をよこぎった。》

さらに、江藤淳は、危篤状態でベッドに横たわる山川方夫本人と山川方夫の家族に対面する。

《 二宮病院は松林なかにある木造二階建の病院で、山川の病室は一階の渡り廊下の奥にあった。なかからは異様な呻き声がもれていた。重態だといっても、果たしてどの程度の容態なのだろうと案じていた私は、そのときまったく絶望的になった。ドアを開けると意識のない山川がベッドに横たわっていた。というよりは、頭部をことごとく白い繃帯おおわれ、間断なくふいごのような音をたてているものがあった。それをみどりさんと、母堂と、お姉さんの三人がとりかこんでいた。つまり、彼がそのために生き、それによって傷ついて来た家族というものが、そこにはいた。》

山川方夫の死 》について、江藤淳は書きすぎるぐらいたくさん書いている。どれほど、江藤淳にとって山川方夫という存在が重要であったかがわかるだろう。

《 その結果山川はいつの間にか、私の内部の存在になってしまっていた。 》(『山川方夫のこと』)

《 私の内部の存在》とは何か。おそらく、父親や母親と同等に、あるいはそれら以上に、とても重要な存在だったというほどの意味だろう。つまり、江藤淳にとって、山川方夫という存在は、単なる《親友 》というより《 親友以上 》の何者かだったと思われる。また、こうも書いている。

《 山川がもう生きていないという感覚に、私はまだ馴れていない。》(同上)

もちろん 、江藤淳は、山川方夫以外の人に、こういう表現はしていない。だから、江藤淳は 、《母親の死 》と同列に、《山川方夫の死》を扱っているということもできるかもしれない。

《 数え年六歳のとき母を亡くした私は、人間が成長するということは、かけがえのないものを喪失して行くことだということを、子供の頃から思い知らされていた。今 、山川というかけがえのない友人を突然の交通事故で喪って、私はまたもうひとつの成長を迫られているのかも知れない。だが、それがどんなに耐えがたい苦痛に充たされた経験であることか。仕事の半ばで急逝した唯一人の親友を見送るということが。》(同上)

江藤淳のこの言葉に嘘やお世辞はない。文字通り、深い哀しみがこもった文章である。私は、江藤淳の文学や思想は、この、親友を喪った《 深い哀しみ》と無縁ではないと考える。それどころか、まさに、この《 深い哀しみ 》の上に成り立っているのが江藤淳の文学や思想だと言っていいと思う。
江藤淳にとって山川方夫とは何であったか。そして、《山川方夫の死》とは何であったか。山川方夫との出会いについて。

《 五日、「三田文学」編集担当山川方夫、人を介して原稿の提示を求める。これを一旦謝す。山川再度原稿の提示を求め、銀座西八丁目並木通の「三田文学」編輯部にて会見し、その熱意を知って『夏目漱石論』の執筆を約す。七、八月、安藤元雄の紹介によって借りた信濃追分の豊家に泊り、「漱石論」を書く。宿泊費食費共一日百数十円なり。八月下旬稿成り山川に送る。山川電報にて帰京をうながす。銀座西八丁目喫茶店「サボイア」に於て山川に逢い、その批評を聴き、約二倍に書きのばすことを約す。『夏目漱石論』は「三田文学」十一月、十二月号に分載さる。「江藤淳」と署名す。狐につままれたような気持なり。唯山川と親交を得しことを喜ぶ。 》(江藤淳著作集5「自作年譜 」)

これが、文学史上にも残る江藤淳山川方夫の最初の運命的出会いであった。
宇野重規のように、江藤淳を、ろくに読みもせずに、さらにもまともに理解しようとう意力もなく、無理解のまま軽々しく批判し、冷笑する人は少なくないが、むしろ、私は、そこに、江藤淳を読むことの《難解さ 》、理解することの《困難さ》が、象徴的に現れていると思う。

たとえば数年前に刊行され、それなりに高い評価を得たように見える平山周吉の『江藤淳は蘇る 』をめぐる騒動を見てみると、何処に江藤淳の《難解さ》の根拠があるかがわかるようにみえる。たとえば何回も書くが、江藤淳は、幼年時代に体験した《 母親の死 》について、執拗に書いている。あるいは晩年に遭遇した《 妻の死 》についても、一冊の本になるまで詳しく書いている。そしてさらには、親友であった《山川方夫の死》についても。ところが、残念ながら『江藤淳は蘇る 』には、その執筆動機と執筆根拠が書かれていない。思想的意味が書かれていない。ただ事実経過が素朴に記述されているだけである。私は、同書に多くを教えられたが、何かが欠如していると思う。これでは、江藤淳という奴は、いつまでも、《母親の死 》を嘆き哀しむ《 女々しい 》《甘ったれ》た奴と思われても仕方がない。では、江藤淳は、何故、《 母親の死 》や《 妻の死 》、あるいは《 親友の死 》を、執拗に追究し、文学作品の一つとして書き続けたのか。実は、江藤淳は、《実存論的精神分析 》として、あるいは《 実存的自己分析》として書いているのだ。単に、母親の死や妻の死を、素朴に嘆き哀しむために書いているのではない。母親の死や妻の死のような悲劇的体験した人は、江藤淳以外にも、少なくないだろう。しかし、それらを、文学作品にまで高めることに成功したかにみえる人は、そんなに多くないだろう。たとえば、江藤淳が強い思想的影響を受けたサルトルは、『 ボードレール』論で、ボードレールが幼くして父親を喪い、その後、母親が再婚したという幼児体験を、ボードレール文学の誕生の根拠の一つとみなしている。またサルトル自身も、自伝的作品『 言葉』で、幼年時代の父親の死と母親の再婚という体験を書いている。サルトル実存主義哲学も、そこを原点に生まれたのではないか。