山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■薩摩半島の山奥のポツンと一軒家・『毒蛇山荘』で『 江藤淳 』を読む(2)。 山川方夫が交通事故で死んだのは、江藤淳がアメリカ留学から帰国直後であった。住む家の問題から妻の病気、入院など、身辺は多忙をきわめていた。『アメリカと私』の連載を終え、次の連載、『 文学史に関するノート』を開始した前後であった。もちろん、山川方夫が交通事故で危篤状態にあることを聞いた江藤淳は、文字通り、取るものもとりあえずに 、入院先の病院へ向かう。 《 二月十九日の午後、事故の知らせを受けたとき、私は当時まだ西銀座の旧Aワ

薩摩半島の山奥のポツンと一軒家・『毒蛇山荘』で『 江藤淳 』を読む(2)。

山川方夫が交通事故で死んだのは、江藤淳アメリカ留学から帰国直後であった。住む家の問題から妻の病気、入院など、身辺は多忙をきわめていた。『アメリカと私』の連載を終え、次の連載、『 文学史に関するノート』を開始した前後であった。もちろん、山川方夫が交通事故で危篤状態にあることを聞いた江藤淳は、文字通り、取るものもとりあえずに 、入院先の病院へ向かう。

《 二月十九日の午後、事故の知らせを受けたとき、私は当時まだ西銀座の旧Aワンビルにあった文藝春秋にいた。出版企画に相談があり、私は文春の社員の人たちにまじって会議に出ていたのである。そのうちに一人の編集者が、『お宅から電話です』と知らせてくれた。出てみると家内の切迫した声で、「山川さんが自動車事故にあって重態なんですって。今みどりさんからお電話があったの。すぐ行ってあげて下さい。」といった。私は耳をうたがった。不吉な予感がし、一瞬後悔のような感情が胸をよこぎった。》

《 二宮病院は松林なかにある木造二階建の病院で、山川の病室は一階の渡り廊下の奥にあった。なかからは異様な呻き声がもれていた。重態だといっても、果たしてどの程度の容態なのだろうと案じていた私は、そのときまったく絶望的になった。ドアを開けると意識のない山川がベッドに横たわっていた。というよりは、頭部をことごとく白い繃帯おおわれ、間断なくふいごのような音をたてているものがあった。それをみどりさんと、母堂と、お姉さんの三人がとりかこんでいた。つまり、彼がそのために生き、それによって傷ついて来た家族というものが、そこにはいた。》

その前後について、江藤淳は書きすぎるぐらいたくさん書いている。どれほど、江藤淳にとって山川方夫という存在が重要であったかがわかるだろう。

《 その結果山川はいつの間にか、私の内部の存在になってしまっていた。 》(『山川方夫のこと』)

《 私の内部の存在》とは何か。おそらく、父親や母親以上に、あるいはそれらと同等に、とても重要な存在だったというほどの意味だろう。つまり、江藤淳にとって、山川方夫という存在は、単なる《親友 》というより《 親友以上 》の何者かだったと思われる。また、こうも書いている。

《 山川がもう生きていないという感覚に、私はまだ馴れていない。》(同上)

もちろん 、江藤淳は、山川方夫以外の人に、こういう表現はしていない。

だから、江藤淳は 、《母親の死 》と同列に、山川方夫の死を扱っているということもできるかもしれない。

《 数え年六歳のとき母を亡くした私は、人間が成長するということは、かけがえのないものを喪失して行くことだということを、子供の頃から思い知らされていた。今 、山川というかけがえのない友人を突然の交通事故で喪って、私はまたもうひとつの成長を迫られているのかも知れない。だが、それがどんなに耐えがたい苦痛に充たされた経験であることか。仕事の半ばで急逝した唯一人の親友を見送るということが。》(同上)


 五日、「三田文学」編集担当山川方夫、人を介して原稿の提示を求める。これを一旦謝す。山川再度原稿の提示を求め、銀座西八丁目並木通の「三田文学」編輯部にて会見し、その熱意を知って『夏目漱石論』の執筆を約す。七、八月、安藤元雄の紹介によって借りた信濃追分の豊家に泊り、「漱石論」を書く。宿泊費食費共一日百数十円なり。八月下旬稿成り山川に送る。山川電報にて帰京をうながす。銀座西八丁目喫茶店「サボイア」に於て山川に逢い、その批評を聴き、約二倍に書きのばすことを約す。『夏目漱石論』は「三田文学」十一月、十二月号に分載さる。「江藤淳」と署名す。狐につままれたような気持なり。唯山川と親交を得しことを喜ぶ。 》(江藤淳著作集5「自作年譜 」)