山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️田中智学と石原莞爾と宮澤賢治。 田中智学が設立した《国柱会》という宗教団体をめぐって、田中智学、石原莞爾、宮澤賢治という人物たちが 登場し、そtれぞれ、《極限の思考》を展開する。不思議な思想的ドラマである。《 国柱会 》を創設した田中智学はともかくとして、石原莞爾も宮澤賢治も、それぞれ、そお活躍の場所やジャンルは異なるが 、ともに天才的頭脳の持ち主であり、ともに 、歴史に大きな足跡を残している人物たちだった。これだけの人物たちを、《トリコ 》にした《田中智学》とは、そもそも、どういう宗教家であり

⬛️田中智学と石原莞爾宮澤賢治

田中智学が設立した《国柱会》という宗教団体をめぐって、田中智学、石原莞爾宮澤賢治という人物たちが 登場し、そtれぞれ、《極限の思考》を展開する。不思議な思想的ドラマである。《 国柱会 》を創設した田中智学はともかくとして、石原莞爾宮澤賢治も、それぞれ、そお活躍の場所やジャンルは異なるが 、ともに天才的頭脳の持ち主であり、ともに 、歴史に大きな足跡を残している人物たちだった。これだけの人物たちを、《トリコ 》にした《田中智学》とは、そもそも、どういう宗教家であり、どういう思想家であったのだろうか。田中智学の何が、石原莞爾宮澤賢治を《トリコ 》にしたのだろうか。この問題を、単に宗教問題、あるいは信仰や信者の問題としてのみ取り扱うことはできい。宗教や信仰の問題があるとしても、そこには、《宗教の深度 》《信仰の深度 》《 信者の深度 》がかかわっている。
石原莞爾が《国柱会》に入会し、《 信行員》となるのは大正9年だが、不思議なことに、宮澤賢治が、《国柱会》に正式に入会するのも大正9年であった。もちろん、二人は、示し合わせて、同時に入会したわけではない。まったくの偶然である。

私は、石原莞爾や田中智学を問うまえに、まず宮澤賢治の宗教体験と信仰活動を例に、《国柱会》との出会いについて見てみようと思う。宮澤賢治の宗教体験を探っていくと、田中智学の思想的本質の一端が、あるいは石原莞爾の思想的本質の一端が、見えてくるのではないかと思われるからだ。

宮澤賢治岩手県花巻に生まれ、家業は古着質商であった。宗教的には、浄土真宗の家庭で育っている。3歳ごろまでに、「正信偈」や「白骨の御文章」などを暗誦することができたといわれている。盛岡中学を卒業した18歳の秋、島地大等編『漢和対照、妙法蓮華経』を読んで、感動したという。この頃、浄土真宗から、日蓮宗的世界へ転向していくわけだが、盛岡高等農林学校に進学してからは、さらに『法華経』の信仰が深まっていく。宮澤賢治が《国柱会》に入会したのは大正9年だが、同年12月2日付の保坂嘉内あての手紙に、《 今度私は国柱会信行部に入会致しました》と書いている。おそらく、これが、宮澤賢治の正式な《国柱会入会》であろう。この《国柱会入会》について、国柱会内部の人は、どう見ていただろうか。当時、国柱会理事で、宮澤賢治の入会に立ち会った高知尾智耀は、「宮沢賢治の思い出」で、書いている。

《彼が国柱会を知り、その創始者であり総裁であった田中智学先生を知ったのは彼が学生時代ならびに卒業後に、東京へ出て上野図書館にしばしば行った時、鶯谷にあった国柱会館に来た時からであろう。とにかく彼が妙法蓮華経々文を拝読して非常な霊感をうけ、それから進んで法華経の研究、そしてついに求道の熱情から信仰生活を欣求し、それをみたすために国柱会に入会することを決意し、彼の従弟で、親友であった関登久也氏を説きふせて、共に一躍国柱会の信行員の認可を申請してきたのである。
当時、国柱会中央事務所であった国柱会館で、国柱会統務会々長であった保坂智宙居士と、理事であった私とが、その願意を検討した結果、信行員の入会を承認し、御本尊妙法曼荼羅と、妙行正軌、宗章等を授与したのであった。》(高知尾智耀「宮沢賢治の思い出」
)

宮澤賢治が、《国柱会》に入会したのは、他人に勧められたわけではなく 、自分で、主体的に決断したものだった。それだけに、宮澤賢治の《国柱会》に対する思い入れも信仰の深度も、かなり深いものだった。続けて、高知尾智耀は書いている。

《いうまでもなく田中智学先生拝写の佐渡始顕の妙法曼荼羅であり、先生撰定の御修行の作法書、妙行正軌である。
 のちに関登久也氏の語るところによれば、賢治は妙法曼荼羅を拝受して非常に喜び、花巻町の経師屋に命じて最もよき表装をなさしめ、そのできあがるや、妙行正軌にある御開眼の作法にもとづき賢治自ら式長として御開光の式をあげ、自分の拝受のものをすましてから、さらに関登久也氏感得のものも賢治が導師として御開眼したということである。その態度はじつに謹厳そのもので、音吐朗々として読経唱題の声いまなお忘れがたいと、関登久也氏は後に語っていた。 》

宮澤賢治の信仰の深さがよくわかる。しかし、《 国柱会 》との出会いはそれ以前にさかのぼる。大正7年2月から、日本女子大学の学生だった妹トシが発病したために、その病気看病のため母と共に上京し、翌8年2月まで東京に滞在するが、その頃に、鶯谷の《国柱会館》で、田中智学の講演を聴聞したことがあったらしい。したがって、《国柱会》を知ったのはこの頃であろう。そして、さらに大正10年一月、突然 上京し、国柱会館を訪れる。高知尾智耀から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。つまり、宮澤賢治の場合、文芸の延長として、宗教や信仰があるわけではない。あくまでも、《国柱会》の信仰が第一で、その延長に《 童話》や《詩 》があった。したがって、《国柱会》の布教活動にも熱心に従事したことは、よく知られている。この濃密な宗教体験や宗教活動のことを、高知尾智耀は、次のように書いている。

《 私がはじめて宮沢賢治に会ったのは、大正10年1月27日の午後、国柱会館の玄関先である。私は国柱会の講師であり理事である上に、会館の清規奉行として受付まで引き受けているという有様で、かなりいそがしい役目であった。
 一人の青年の来訪に、玄関先へ出てゆくと、頭は五分刈、紺ガスリの和服姿に、洋傘と風呂敷づつみをもった、質実そうな二十五六歳の青年が立っていた。用向きをたずねると
 「私は昨年、国柱会の信行員として入会をゆるされた岩手県花巻の宮沢賢治というものであります。爾来国柱会のご方針にしたがって信仰にはげみ、一家の帰正を念じて父の改宗をすすめておりますが、なかなか了解してくれません。これは私の修養が足らないために父の入信が得られない、この上は国柱会館へ行って修養をはげみ、その上で父の入信を得るほかはないと決意し、家には無断で上京して来たものであります。どういう仕事でもいたしますから、こちらに置いて頂きご教導をいただきたいのです」ということであった。
 私は同君が昨年、関登久也氏と共に一躍信行員として入会されたことは思い出したが、家を無断でとび出してきたといわれるので、即決的にきめかねて「東京にご親戚はありませんか」と尋ねると「あります」「それではひとまずそちらへおちついて下さい。そしてこの国柱会館に『毎夜講演』といって、日蓮主義の講演が毎夜あるから、それへ御来聴下さい。その際にゆっくりご相談いたしましょう」といって別れたのであった。
 (中略)
 私が宮沢賢治にはじめて会った時の第一印象は、「誠実醇朴な青年」という感じで、この人が珍しい信仰家であり、たぐいまれな詩才を有し、親には至孝、農村指導の篤行家であったことは、まだ私にはわからなかった。
 賢治が親戚といったのは、日本橋にあった商業上取引の家で、一晩はそこへ泊まったが、その後は本郷辺の筆耕屋へ住みこみ、持ち合わせの小遣いも少なく大変苦労されたということが後にわかったが、その時は何もそういうことはいわれなかった。もしそういう実情とわかったならば、及ばずながら何らかのお世話ができたのにと、何年か後に悔いたことである。
 とにかく賢治はその後、毎夜国柱会館に通い、講話を聞かれるばかりでなく、いろいろの会合の斡旋をしてくれた。この国柱会館は、田中先生が大正5年に国柱会の中央活動の道場として建てられたたもので、本部は静岡県三保の松原、最勝閣にあった。
 国柱会館の建物は、洋風2階建てで、屋上は全部庭園になっており、2階は大広間で舞台があり、千人位の収容力があり、講演会、国性劇の公開等がたびたび行われた。『毎夜講演』は、国柱会の講師が交替で、法華経の話、日蓮聖人の御遺文の話、田中智学先生の『妙宗式目講義録』の話、その他日蓮主義による時事問題、社会問題の批判等を毎晩やっていた。
 また当時は大正9年に日刊『天業民報』が創刊されてまもないころで、国柱会の講師と会館詰めの青年は、毎日のようにお昼休みを利用して、ほど近き上野公園に行き『天業民報』を施本し、読者を募るべく屋外宣伝をやった。賢治もおりおりこれに加わり、壇上に立って講演をされたそうである。私はいっしょになったことはなかったが、のちに他の青年から賢治が熱心に絶叫されたという話を聞いた。》(同上)

しかし、妹トシ病気のため帰郷せざるをえなくなる。