■(続々々)藤田東湖と西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』のための草稿です。)
昨夜、NHKのニュースを見たあと、うたた寝をしていると、何やら怪しい声が聞こえてきた。寝ぼけ眼で 、見ていると、若い武士たちが、騒いでいる。私が、普段、よく見る夜明けの前の「暴れん坊将軍」と明らかに違う。しばらくみていて気づいた。NHKの大河ドラマのようだ。ああ、これが渋沢栄一のドラマか、と気づいたので、馬鹿馬鹿しいと思って消そうと思ったが、ちょっと気になったので、はなしのネタにでもと思って 、ついつい見てしまった。私は、渋沢栄一は嫌いではない。渋沢栄一の旧宅跡がある飛鳥山公園にも、頻繁に行く。私にとっては、ちょうど手軽な息抜きの場所だからだ。王子駅の目の前にある雑木林の中の小高い丘の上に飛鳥山公園はある。人は少ない。茶店や公園内のレストランで、ビールを飲む。毎年、桜の花見もここでやる。
さて、昨夜のNHKのドラマでは、渋沢栄一が徳川慶喜の一橋家に仕官する話や、水戸藩の「天狗党の乱」が取り上げられていた。
私は知らなかったが、渋沢栄一は、深谷の豪農の家に生まれたが 、まず水戸学派の「尊皇攘夷論」に惹かれて、その延長上で 、徳川慶喜の「一橋家」へ仕官したのだそうである。おそらく渋沢栄一の飛躍の原点はここにあるのだろう。渋沢栄一が、かなり「上昇志向」の強い少年だったことが分かる。徳川慶喜は、維新後、命を永らえて 、静岡県に幽閉・蟄居することになるが、渋沢栄一は、最初のうちこそ 、徳川慶喜の側に従うが、そこから、徳川慶喜から離れて、明治新政府に出仕する。その後の活躍は、誰でも知っているだろう。これは、言い換えると 、渋沢栄一は、かなり調子のいい人間であり、時勢を見るに敏な人間だったのだろう 、ということが分かる。「武州」(埼玉県)というと、後に、「秩父困民党事件」が起きるわけだが、渋沢栄一は、この事件に対して、どういう態度をとったのだろうか。深谷は、秩父に近いはずだ。見殺しにしたのか。水戸学派、尊皇攘夷論 、徳川慶喜、新政府、欧米歴訪、近代化、日本資本主義の父・・・、全部、「いいとこ取り」という奴だろう。私は、商人や実業家が嫌いだというわけではない。「金儲け」が悪だとも思わない。私は 、松下幸之助や本田宗一郎・・・等を尊敬する。だが・・・。渋沢栄一は90まで生きたという。大往生である。あの激動の時代を、90まで生きたと言うから 、生き延びることには如才ない男だったのだろう。以前は嫌いではなかったが、綺麗事ばかり聞かされると、だんだん嫌いになってくる。渋沢栄一は、90まで「生き延びた」というより、「死ねなかった」のだろう。天狗党の死者たちをダシに使うな、と言いたい。商人は商人に、実業家は実業家に徹すればいい。