■(続々々々)藤田東湖と西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』のための草稿です。)
本稿の最初の問題に戻る。私は、西郷南洲が、藩主・島津斉彬に随行して、初めて江戸の薩摩屋敷へやって来た時、そこでの最初の思想的体験は、藤田東湖を知ったことだった 、と書いた。その時、 西郷南洲は、藤田東湖の中に何を見、何に感動し、何を畏怖するようになったのだろうか。藤田東湖の説く「尊皇攘夷論」だったろうか。おそらくそうだっただろう。しかし、 私は、それだけではなかったのではないか、と思う。西郷南洲と藤田東湖が、年の差を超えて、「肝胆相照らす」仲になり 、文字通り「意気投合」したのは、何故か。私は、本稿を書きながら、様々な論文や研究書類も読んでみたが、私の不勉強かもしれないが、この問題に答えるものはなかったように思う。したがって、私がここで書くものは研究でも論文でも、ない。私の思想的体験談にすぎない。
ところで、西郷南洲は、常に戦場で闘う人だった。最後の西南戦争に至るまで、戦い続けて、戦いの中で死んでいった。狩りや温泉で、野山を散策=放浪しながらも、常に戦う用意は出来ていた。
一方、藤田東湖は、安政の大地震で、倒壊した家屋に押しつぶされて圧死した。至って平穏な人生だったように思うかもしれないが、そうではなかった。『回天詩史 』にもあるように、藤田東湖もまた、若い時から「死」と向き合った人生だった。「桜田門外の変」で、首謀者だった高橋多一郎も 、天狗党の乱でリーダーを務めた武田耕雲斎も、ともに悲劇的な最期を迎えるが、ともに藤田東湖の「盟友」だった。藤田東湖が生きていたとしても 平凡な人生が送れたとは思えない。西郷南洲も 、高橋多一郎 も、武田耕雲斎も、「反乱軍」の総大将だった。藤田東湖は、そうではなかったとは言えない。藤田東湖も、いつでも、「反乱軍」や「賊軍」の総大将として決起する用意が出来ていた。そこが、西郷南洲と藤田東湖が、「意気投合」した所以ではないだろうか。西郷南洲も藤田東湖も、「勝つ戦争」しかしない人ではなかった。