山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■『江藤淳とその時代 』(2)〜サルトル哲学とその影〜 江藤淳も、日比谷高校時代は、「仏文学」に憧れる、一介の「文学青年」だった。しかし、江藤淳は、「文学青年ごっこ」をいつまでも演じ続けられるほど、呑気な立場にはいなかった。一家の家計は逼迫し、江藤淳自身も結核で高校を一年休学し、留年しているほどである。「死」や「病気」や「貧困」に憧れるのは「文学青年」や「文学少女」の特権であるが、しかし、「死」や「病気」や「貧困」に現実的に直面している人間に、そんな余裕はない。慶應大学入学後も、結核を発病し病床に伏してい

■『江藤淳とその時代 』(2)〜サルトル哲学とその影〜
江藤淳も、日比谷高校時代は、「仏文学」に憧れる、一介の「文学青年」だった。しかし、江藤淳は、「文学青年ごっこ」をいつまでも演じ続けられるほど、呑気な立場にはいなかった。一家の家計は逼迫し、江藤淳自身も結核で高校を一年休学し、留年しているほどである。「死」や「病気」や「貧困」に憧れるのは「文学青年」や「文学少女」の特権であるが、しかし、「死」や「病気」や「貧困」に現実的に直面している人間に、そんな余裕はない。慶應大学入学後も、結核を発病し病床に伏していた。日比谷高校時代は、まだ、文学好きの同級生たちと「文学青年ごっこ」にうつつを抜かしていられた。その頃は、堀辰雄の「軽井沢文学」に憧れ、同級生たちと軽井沢の別荘で合宿するというような文学青年でもあった。しかし、次第にそういう状況に違和感を感じはじめていた。やがて江藤淳の中に大きな転機が訪れる。その転機、つまり思想的転向について、江藤淳は「文学と私」で、こういいふうに、回想している。

《そのうちに私にある転換がおこった。ひと言でいえば 、私はある瞬間から死ぬことが汚いことだと突然感じるようになったのである。》(「文学と私」)

「死ぬことが汚いこと」だと感じはじめたとは、どういうことだろうか。これは、言い換えれば、それまで「死ぬことが美しいこと」だと、江藤淳が、あるいは江藤淳の仲間の文学青年たちが、思っていたということではないだろうか。ここで、江藤淳の中で、文学青年たちとの訣別、いわゆる「歌のわかれ」(中野重治)がおこなわれたということではないか。つまり、この時、江藤淳は「死ぬこと」より「生きる」ことに転向する。言い換えれば、「文学」と訣別すると同時に「批評家」になるのである。さらに続けて、江藤淳は書いている。
《さりとて人生に意味があるとは依然として思えなかったので、私に逃げ場がなくなり、自分を一個の虚体と化すこと、つまり書くことよりほかなくなった。だがそのとき、死んだ山川方夫が、私が口から出まかせにいった「夏目漱石論」のプランを積極的に支持してくれなかったら、臆病で傲慢な私はまだ批評を書かずにいたかも知れない。》

「 さりとて人生に意味があるとは依然として思えなかったので ・・・ 」とは、どういうとか。それは、おそらく、文学という虚業と訣別し
経済学や法学、あるいは医学や理工学というような「実学」へ転じることを意味しているだろう。しかし、江藤淳は、その方向にも 、つまり「実学」にも意味を見いだせなかった、ということだろう。日比谷高校の友人や同級生たちの中には、文学青年たちはいたが、ほとんどのひとが、「実学」へ転向し、官僚や実業家、学者への道を進んでいいる。文学部へ進学しした者も、ほとんどが文学研究者(学者)となっている。小説家や詩人、批評家という「文学」の道を進んだものは皆無だ。安藤元雄のように、東大仏文科へ進学し、「詩人」になった者もいたが、あくまでも「仏文学者」の兼業、あるいは副業としての詩人にすぎない。一見、「文学」を貫き通したように見えるが、私は、違うと思う。文学研究者は、文学者ではない。大学教授という健全な小市民である。
江藤淳が進んだ道は、そういう安全な道ではない。「筆一本」で生計を立てながら、文学を批判しながら、文学を専業として生きていくという「作家」や「批評家」「詩人」の道であった。
江藤淳は、日比谷高校時代の文学的ロマン主義の時代から、文学を批判し、否定する反文学的リアリズムの時代へと変身転向していく。その具体例が、「堀辰雄」から「夏目漱石」への転換であった。江藤淳は、慶應入学後も、東大仏文科に進学した日比谷高校時代の友人=安藤元雄との交流を続けながら 、安藤元雄の主催する同人雑誌に、エッセイや小説の習作などを発表していた。それが、慶應仏文科の学生ながら、「三田文学」編集長だった山川方夫の目にとまり、原稿を依頼され、その結果、江藤淳のデビュー作となる『夏目漱石論』を執筆することになる。