山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■江藤淳『 マクリーンの手紙』を読む。 江藤淳に『 マクリーンの手紙』という短いエッセイがある。プリンストン大学で、「 日本文学史」を講義していた時の受講生で、いわゆる《教え子 》だったというビル・マクリーンからの手紙にまつわるエッセイであるが、このエッセイが、《大学教師》としての江藤淳を正確に、且つ生き生きと表現しているように思われる。上野千鶴子などは、江藤淳は、アメリカ留学時代、冷たい待遇を受けて、傷つき、それを契機に《 保守化 》し、《 反米主義 》になった・・・という主張のようだが、私は、その

江藤淳『 マクリーンの手紙』を読む。

江藤淳に『 マクリーンの手紙』という短いエッセイがある。プリンストン大学で、「 日本文学史」を講義していた時の受講生で、いわゆる《教え子 》だったというビル・マクリーンからの手紙にまつわるエッセイであるが、このエッセイが、《大学教師》としての江藤淳を正確に、且つ生き生きと表現しているように思われる。上野千鶴子などは、江藤淳は、アメリカ留学時代、冷たい待遇を受けて、傷つき、それを契機に《 保守化 》し、《 反米主義 》になった・・・という主張のようだが、私は、その分析は、まったく間違っていると考えるが、その証拠が、このエッセイである。江藤淳が、留学時代、その処遇に対して《 不平 》や《不満 》をいだき、《焦燥 》と《怒り 》に近い複雑な感情を持っていたことは確かだが、それが、江藤淳の《保守化 》や《反米主義 》に繋がったとは思えない。江藤淳が、《 不平 》や《不満 》をいだき、《焦燥 》と《怒り 》に近い複雑な感情を持ったのは、江藤淳の《 希望》や《期待 》があまりにも大きすぎたからだ。江藤淳は、羽田空港で、見送りに来た友人の坂上弘等に、《日本のサルトルになりたい 》と言って、旅立っている。少し興奮していたのかもしれない。ちなみに大江健三郎羽田空港まで見送りに来たらしい。まだ《アメリカ留学》が、あるいは《渡米》というものが珍しい時代だったのだろう。いづれにしろ、留学一年目をすぎて 二年目になると、状況は一変する。江藤淳は、プリンストン大学の《大学教員 》として採用される。こういう時、俄然、持ち前の社交術と行動力と、そして流暢な英語力を発揮するのが江藤淳である。江藤淳が、大学の講義に全力投球し、学生たちの注目を集めたことは、想像にかたくない。江藤淳は、どんな《大学教師 》だったのか。『 マクリーンの手紙』から引用する。

《 ビル・マクリーンの手紙が私の手許に届けられたのは、あれは何年くらい前のことだったろうか。正確にいえば、それはビルが母校のプリンストン大学に出した手紙で、プリンストンから当時勤務していた東工大の研究室に転送されて来たものだった。その手紙に、ビルは記していた。自分はプリンストンの卒業生で、その後シカゴ大学の大学院に進み、生物学で学位を取得した者である。現在は、ヴァージン・アイランズ大学の教授の職にあるが、実は癌を病んで闘病生活を余儀なくされている。それにつけても、学生時代に日本文学史を習った江藤淳という先生は、今頃、どこでなにをしているのだろうか。病気になってみると、その頃のことが頻りに思い出されてならないのだが、なかでも江藤先生の日本文学史は、自分にとって、最も忘れ難いものだった。住所がわかれば、是非ご一報いただきたい。》(『 言語と沈黙』所収)

文学ではなく、専門外の生物学を専攻する学生が
、日本からやってきたばかりの30歳前後の若い「 江藤淳先生 」の「日本文学史」の講義を、長く記憶にとどめている。このことからわかることは、江藤淳が、プリンストン大学の教室で、全力を振り絞って、熱弁をふるっていただろう姿である。