存在論としての漱石論(8)
私が、江藤淳を高く評価する根拠は、その「批評的思考力」の過激さである。何者をも恐れずに、誰彼、構わずに論争を仕掛けていき、完膚なきまでに論破していくその「攻撃力」と「破壊力」である。江藤淳が、あと先や、周辺の顔色をうかがいながら、その過激な批評的思考力を行使しているとは思えない。「破れかぶれ」という言葉があるが、江藤淳の批評的思考力には、「破れかぶれ」という言葉が、相応しいように思われる。しかし、むろん、江藤淳の批評的思考力が、論理的、合理的でないわけではない。江藤淳の批評や論争は、破れかぶれの暴走のように見えるが、よく点検してみると、まったく逆である。精巧・緻密な論理と実証的なデータに裏打ちされた高度の議論を展開している。それは、デビュー作の『夏目漱石 』論から、「文芸評論」や「 占領研究」「無条件降伏論争」「戦後憲法論」・・・にいたるまで、一貫して、貫徹されている。
外部からは、水と油のようにしか見えないにも関わらず、吉本隆明と江藤淳とが、面と向き合うや、たちまち「意気投合」し、対談を何回も繰り返し、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』という文庫本まで、出した理由もそこにある。吉本隆明もまた、日本の近代思想史の中では、類を見ないような、過激な「批評的思考力」の持ち主だった。