江藤淳と吉本隆明の話を続ける。江藤淳と吉本隆明の間には、「共通性」があると私は書いたが、実は、私が、最も関心を持つのは、「大学」や「学問」に関する共通性の部分である。江藤淳も吉本隆明もともに、大学や学問に強烈な違和感や敵愾心を持ちながら 、批評活動や思想活動をおこなった文学者だった。吉本隆明が、生涯、「大学教授」というものになることを拒絶し、「自立」という言葉を力説=強調して 、大学や学問というものを批判し続けたことは、よく知られているが、実は、東工大教授や慶應大学教授、大正大学教授・・・と言うように、形式上は 「大学教授」とい職業を歴任したはずの江藤淳も、対自的=内面的には、大学や学問に違和感と敵愾心を持ち続けていた。私の考えでは、江藤淳の批評的本質の一つは、「大学との闘い」、あるいは「大学的なもの」「学問的なもの」との闘いにあった。江藤淳の「戦後論」や「憲法論」の主題は、「東大法学部」を頂点とする「大学的なもの」や「学問的なもの」への激烈な批評的闘いにあった、ということができる。それは、夏目漱石や小林秀雄にもつながる「批評や文学は学問ではない」「大学には批評も文学もない」という文学自立論的な精神の系譜でもある。その精神は、「自立論」を唱え、大学や学問とは一線を画しつつ、究極の学問や文学や思想をを追究しつづけた吉本隆明とも共通する。
たとえば、江藤淳の『夏目漱石』論の隠れた主題は、漱石の「東京帝国大学講師辞職事件」である。漱石が、東京帝国大学を辞して、朝日新聞に入社した事件である。漱石は、「東京帝国大学」や「大学教授」を栄誉とする世俗的価値観に背を向けて、「博士」にも「大臣」にも、そして目の前にある「東京帝国大学教授」にもならず、それらを拒否し、新聞社に転職して、朝日新聞専属の「小説家」になったのである。厳密に言うと 、近代日本文学は、この漱石の「東京帝国大学講師辞職事件」に始まると言っていいかもしれない。
江藤淳は、その背景について書いている。
《英国留学の直接の所産である「文学論」の 、最も重要な部分は私見によればその序文であるが、 その中で、漱石は次のようにいっている。》(江藤淳『夏目漱石』)
こう書いた後で、漱石の「文学論」序文を引用している。漱石は言う。
《 余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関わらず文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし、斯くの如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながち悔ゆることなかるべしと。・・・・・・春秋は十を重ねて吾前にあり。学ぶに余暇なしとは云はず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業する余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるごとき不安あり。 》(夏目漱石『 文学論 』)
漱石は、何を、ここで、言おうとしているのだろうか。漱石は、幕末とはいえ 、徳川幕府の時代に育ったから、受けた教育は、「漢籍」中心の儒教的なものだった。しかし 、時代は、明治維新を経て大きく変わる。明治維新以後の教育は「洋学」中心の教育となり 、教育内容も大きく変わる。漱石も 、時代の変化に適応すべく「英文学」を学び、その英文学で身を立てようとする。そして、「東京帝国大学講師」にまで上り詰めることに成功する。しかし、その英文学は、文学とは言っても、「漢籍」の中で学んだ「漢文学」とは、似て非なるものだった。《 卒業する余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるごとき不安あり。 》漱石の「東京帝国大学講師辞任事件」の動機の一つは、ここにあった。漱石が、生涯をかけてやろうとしたのは、「漢文学」のような文学だったが、現に、漱石が学び 、そして二年間のロンドン留学を経て、「東京帝国大学」の英文学講座で、教師として教えなければならなかったのは、漢文学とは似ても似つかぬ英文学としての文学だった。
要するに、漱石は、東京帝国大学教授を目前にして、突然、誰もが羨望の目で見ていただろう、その職を辞職し、当時、二流の民間企業の一つに過ぎなかった「朝日新聞社」の「専属小説家」に転職した。何故、漱石は、「東京帝国大学講師」という出世街道を、つまり当時のエリートコースを投げ捨て、民間企業にすぎない新聞社に就職したのか。漱石に何が 起こったのか。これは大きな謎だが、江藤淳や吉本隆明との「共通性」(ひと回りして一致?)を考える時、この問題は重要な問題である。漱石だけではなく、江藤淳や吉本隆明にとっても、大学や学問に対する「違和感」と「嫌悪感」、あるいは「距離感」・・・という存在感情は、彼等の「小説」や「批評」、あるいは「詩」の重要問題であり、存在根拠であり、ともに共有している存在感情であった。「大学」や「学問」「学者」というものについて、漱石は、朝日新聞社への『入社の弁 』で、こういうようなことを言っている。江藤淳の『 漱石とその時代 第四部』から借用する。
《 大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢う人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかつた。(中略)。大学の様な栄誉ある位置を擲つて、新聞屋になたから驚くと云ふならば、やめて貰いたい。》
漱石は、『 入社の辞』で、続けて、こういうことも書いている。ここには、「大学」への嫌悪と批判と拒絶が、露骨に表現されている。
《 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなからう。月俸を上げてもらふ必要はなからう。勅任官になる必要はなからう。新聞が商売であるが如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業してゐるのと、御上で営業になるとの差丈である。》(夏目漱石『入社の辞』)
漱石の大学(東京帝国大学)への嫌悪は、激しい。こういう激しい嫌悪や批判や拒絶は、何処から生まれ出てきたのだろう。何か、根本的な、生理的な感情が、漱石を包んでいたようだ。江藤淳は、この文章を引用したあと、こういう感想を述べている。
《 控え目にいっても、これが不穏当な文章であることは今更あらためて指摘するまでもない。「新聞屋」に「大学屋」、それに「下卑た商売」 などという挑発的な言辞、わざわざ向きになって並べ立てて見せたという趣きがあるからである。
》
《不穏当なばかりではなく、この文章にはまたなにがしか異常な響きも底流している。 》
《そうせずにはいられないある兇暴な 衝動が、われにもなく彼を駆り立てているからである。》(江藤淳『 漱石とその時代 』第四部)
江藤淳が、漱石の「大学辞任」発言(「入社の辞」)を、「不穏当」とか、「異常な響き」「凶暴な衝動」と呼び、重く受け止めていることは明らかである。漱石は、何故、「東京帝国大学教授」への道を、「喧嘩別れ」のような捨て台詞を残して、捨て去ったのか。江藤淳が、ここに、漱石文学の本質の一端に関わる問題があると見ていることは間違いない。
実は、江藤淳もまた、「大学」とか「学問」とかいうものに、激しい嫌悪と批判と拒絶の感情を、漱石と共有していたからである。江藤淳は、日比谷高校生の時、既に「東大進学」を断念していた。自分の学力が合格基準に達していなかったということもあるかもしれないが、それだけではないように見える。江藤淳の年譜には、「東大を落ち」て、「慶應義塾大学英文科へ」進学と書いているが、これを素朴に信じ込むことは危険である。普通の受験生ならばそうかもしれないが、江藤淳は、普通の受験生ではなかった。江藤淳(江頭敦夫)は、日比谷高校でも、名の知れた日比谷高校生だった。数学が苦手だったとはいえ、「東大合格」の可能性は高かった。負けず嫌いの江藤淳が、東大という大学にこだわっていれば、一年、浪人し、翌年、もう一度 、受験するはずであるが、江藤淳は、そうしなかった。江藤淳が「東大を落ちて 、慶應に行った」ということにこだわり 、江藤淳が、それだけの学力しかなかったかのように言う人が少なくないが、私は、それは違うと思う。江藤淳には江藤淳独自の計画と戦略があったのである。「東大に落ちた」ということにこだわるならば、たとえば、大江健三郎も蓮實重彦も、そして『 江藤淳と大江健三郎』を書いた小谷野敦も、「東大に落ち」ている。そして、その後、「一浪」して、東大に合格し、東大に進学している。それは、普通の受験生の話だろう。江藤淳は 、彼等とは何かが違っていた。江藤淳の「東大」への嫌悪、批判、拒絶は、漱石と同様に、かなり激しいものがあったのではないか。しかも、江藤淳は、慶應義塾大学に進学後も、だれが、どう見ても、飛び切りの秀才でありながら、慶應の英文科の中心的な教授であった「西脇順三郎」と対立し、衝突し、大学院を中退している。私見によれば、江藤淳は、「東大」を拒絶しただけでなく、「慶應」をも、「西脇順三郎」をも拒絶している。「慶應義塾大学教授」になることが夢であり 、理想であったはずだが、それを目前にして「慶應」をも拒絶しているのだ。何があったのか。漱石の前に「小説」があったように、江藤淳の前には「批評」があったのだ。