山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

存在論としての漱石論(7) 正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。 《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)

存在論としての漱石論(7)

正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。
《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)

正宗白鳥を引用した後、江藤淳は、次のように書いている。

《明治以来、ーーやや限定していえば、所謂自然主義以来ーーのぼくらの主たる不幸は、こうした「懐疑苦悶」の亡霊に陶酔しつづけて来たことにあるといっても、さして事実と遠くはない。田山花袋などが野心的にはじめた西欧文学の輸入は、実は極く素朴な感動の模倣にすぎなかったで、清新な外国文学を読んで感動した青年逹は、通俗に信じられているように「近代的な自我」に目覚めたりせず、只、その感動の自分自身による追体験を求めただけの話である。》(江藤淳夏目漱石 』)

江藤淳は明治文学の「懐疑苦悶」がニセモノであり、モノマネだと言う。「懐疑苦悶」ではなく 、「懐疑苦悶の亡霊」だと。江藤淳が、文学者や多くの文芸愛好者たちに嫌われる理由は、おそらく、ここにあるのかもしれない。しかし、江藤淳はさらに、追撃する。
《 すなわち、作家達は現実に存在しない「懐疑苦悶」の亡霊を輸入し、その亡霊を誠実に信仰することからはじめたのである。当時の日本で、鉄道が敷設され、軍艦が自国の造船所で建造されることが名誉だったように 、西欧風の「懐疑苦悶」を所有していることも名誉だったのであって、所謂自然主義の作家達は、この意味では、光栄ある帝国陸海軍並の国家的貢献をしていたといわねばならない。今日からみればまるでお笑い草であるが、これを嘲笑し去るのは極めて危険なことである。》
突然だが、江藤淳吉本隆明の違いも、ここらあたりにあるのかもしれない 。吉本隆明には、それほど激しい近代文学に対する批判はない。実は、私は、江藤淳吉本隆明を同時並行的に読んでいた。いずれも、深く共感しつつ、熟読を繰り返した。有名な「江藤淳=吉本隆明対談」における「一周まわって一致する」とかいう吉本隆明の言葉が、腑に落ちたことを、よく覚えている。吉本隆明を読みながら、江藤淳を読むことが、可能であった時代だった。もちろん、例外は、いくらでもあっただろう。左翼リベラル系の読者たちの多くは、吉本隆明を愛読しながらも、政治思想家的には保守反動系の江藤淳を、蛇蝎のごとく嫌っていた。吉本隆明江藤淳は違う 、と思い込んでいる人達が、多数いたことも確かだろう。そこで、私は、当時、「群像新人文学賞」を受賞して登場してきた柄谷行人を思い出す。柄谷行人は、江藤淳吉本隆明を、両方とも高く評価していた。吉本隆明のことはともかくとして、江藤淳をも、同じように評価し、擁護する論陣を張っていた柄谷行人は、左翼リベラル系の評論家や読者たちから激しく批判されていた。が、私は、むしろ逆に 、それ故に 、柄谷行人を真剣に読み始めた。ここらあたりの微妙な立ち位置に、私の存在根拠があった、と思う。当時の私の立ち位置は、今でもほとんど変わらない。「江藤淳=吉本隆明=柄谷行人」という三位一体構造が、私の存在根拠だった。私の『江藤淳とその時代 』は、そういう立ち位置に立脚している。それこそが、私の思考のアルファでありオメガである。私は、私と同じように考えている人が、他に多数いたのか、ほとんどいなかったのか、知らない。ところで 、私は、「世代論」が嫌いである。私は、世代論に回収されるような議論や言説が嫌いである。私は、世代論的には、全共闘世代とか団塊の世代とか言われる世代に属するが、私は、この世代の思想や思考が、嫌いである。私は、「東大全共闘」関係の思い出話が、大嫌いである。「三島由紀夫と東大全共闘」とかいう懐メロ映画があったが 、私は、見たくもなかった。もちろん、見なかった。私は同世代に、共感出来るような学者、思想家、言論人を、一人も持っていない。加藤典洋村上春樹内田樹高橋源一郎・・・等が、大嫌いである。少なくとも、私は、思想も思考も感受性も、彼等とは決定的に違う。それが 、私が文章を書く時のプライドである。